2004.06.10

セルフハンディキャッピング:都合よく自分を弱者にしたてあげる

誰かを責めたいというよりは自分が反省しなければいけないという意味で、この「弱者の権力の濫用」というキーワードが私にとってとても大事。


たとえば私が「貧乏だから」と言うとき。
たとえば私が「女だから」と言うとき。
たとえば私が「若いから」と言うとき。
たとえば私が「就活うまくいかないんだよね」と言うとき。


私はこの狡い卑屈さで相手を攻撃している。相手がそれに対して絶対反撃できないとわかって。だってこれに対して相手がどんなに正論で返したとしても、こちらが弱さを武器にしてひがみ倒せば相手はもうそれ以上なにも言えなくなる。相手にはどうしようもないことだから。

よく噛み締めておきたいですね。

如何様にも:みっともない

あなたはセルフハンディキャッパーでしょうか?
自分はセルフハンディキャッパーだろうか?

ただ、もちろんセルフハンディキャッピングはすべての人間が無意識に使ってしまうものでもあります。問題は「だから、何?」という部分でどう考えているかではないかと思ったりしました。「~であることに免じて大目に見てよ」というのはありだろうと思います。問題は自分の責任が無いかの如く振る舞う(責任転嫁)ことでしょうね。

ところで、前者のコメント中の poff0516 さんによるコメント。

唯一できる反撃がありました。


「わたしもだけど」です。

あはは。ハンディは帳消しですな。
みんな、それなりに大変なわけですよねぇ。

前にこんなことも書いたなぁと、ふと思い出しつつ。

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2004.06.08

プロパガンダとは

移転しました。
<a href="http://www.sk-jp.com/mt/philosophical/archives/2004_06/08_185411.html">philosophical: プロパガンダとは</a>

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2004.06.07

自分が不満なのかみんなが不満なのか

えーっと既に議論がなされて収束気味っぽいらしいのですが、その前に書きかけていた記事です。議論自体は追い切れていません_o_。

圏外からのひとこと(2004-05-17):みんなってあんたと誰?
より。

「お前にはみんな迷惑してんだよ!」って何回も言われたことあるんですけど、「みんなって、あんたと、あと誰?」って聞くと、たいていは答えがない。不思議ですね。

はてなダイアリー - ネ タ の タ ネ
への Bonvoyage さんによるコメントだそうです。

<私>の代弁をよそおったモラル支配、ヤになる程ありますですねぇ!とまれ、これも 20040424#p2 でカキコした「恣意的強弱二者関係への追込み」なんですよね~。これは裏返せば、自己モラルに背く者への反感(不安)感情をモラル化して自分ダケぢゃないと責任解除し、同時に自己モラル強化=正統化することによる、自己安定化行動だったりするのでしょうねぇ。

と、hizzz さんがコメントされています。

この問題、確かに重要と思うわけですが、一方で私は以下のような思想も持っています。

感情に基づく「不満」といえどもそれを当人に伝えるのは良いことと思います。その時、感情をぶつけるのではなく「~ような主張/物言いでは~のような気分になる人も多いのではないですか?」とか少し客観的になって当人に理解してもらおうという態度で挑むことができればよいんだろうなぁ、と。
私は何かを述べる時に別に対象に向かって話しかけなければならないということはないと思っています。自分のことを話している人が自分に対して話しかけていなければならないというのは窮屈だなぁ、と。陰口に関する話題でも書きましたが、自分なりの根拠が述べられている、或いは根拠の説明の意思がある評論については、行動様式/人格は度外視して拝聴します。

元の問題を鑑みると前者引用は以下のように書くべきだったなと思いました。

その時、感情をぶつけるのではなく「~ような主張/物言いでは~のような気分になる人も多いのではないですか?少なくとも私だったらそう思います。」とか少し客観的になって当人に理解してもらおうという態度で挑むことができればよいんだろうなぁ、と。

書いた当時だって気分としては修正後と同じだったはず。
後者引用先で述べているように、

そのような行為に反射的に拒否的な言動をとってしまうということは、きっと多くあるのだと思います。私はそういうのはレッテルであると考えていますが、実際にピントはずれな分析が多いことも確かですので、気持ちは分かるわけです。

こういう現象もあることは理解しています。

これらの境界線は何だろうと思ったわけですが、言わんとする側の気分と聞いた側の気分に多分な相違があるんですね。
聞いた側の気分は「みんなってあんたと誰?」で象徴される感覚ですね。では「みんな」とまでは言わずとも、自分以外の他者もそう思ってるはず、という言い回しをすることによって、話者はどんな効果を狙っているのでしょう?

当然のごとく、「無視されざる意見であることの強調」なわけです。「俺はこう思う」だけではそれが正当な意見であっても「へぇ~、そう」で捨てられる可能性が高いことも事実です。我が侭を押しつけようとしているだけ、と見られるわけです。だからといって、存在するか解らない他者を引き合いに出した場合は、「モラル支配」に見えるわけですか。

結局、またしても「正当と不当」が鍵になるわけですが、「みんな」を引き合いに出すのが正当であるか不当であるかも結局主張が正当か不当かによって異なるわけです。というより、「みんな」と言ったかどうかは意見の正当性とは全く無関係ですから、実際のところはそこに反応すること自体が無意味なんですけどね^^;。もちろん不当な意見を「みんなこう思ってるんだよ」なんて言う人が「不快」であることは全く同意しますです。

で、私としては、(それが正当な意見であろうとも)自分への反論を聞く耳を持てない人が少しでも耳を傾けてくれるようにするために、実際にその意見が多数であるというある程度の確信があるなら「そう思う人が多いと思いますよ」と言うことはあると思います。

この話題の関連議論ですが、詳しくは見れていないのですが、どうも多数のコンテキストが存在し、それぞれのコンテキストにおける正論が述べられている印象を持っています。当然この記事で言っていることも完全に一般化はできていないと思います。そもそも「みんなってあんたと誰?」はすごくキャッチーな言葉ですが、この言葉だけではコンテキストが全く限定されていないので、いくらでも反論が出てきますもんね。

そうすると、いろいろなコンテキストをぶつかり合わせる形で議論するのではなく、それぞれのコンテキストにおける解釈を見て、自分の今後の行動の参考にするのが良さそうですね。

この議論は、こちらで言及記事をリストアップしてくださっています。
はてなダイアリー - Bon voyage! ~日常へのシステム・アプローチ

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2004.06.04

自身の影響力を故意に矮小化すること

批判への対応関連その3。>その1その2

インターネット上での有用な情報発信を続けていくと、その「人」がネット上の狭い範囲でとはいえある程度有名になったりします。少なくともそれを始める前と比べて、あなたのことを「知っている」という人は数百/数千人単位で増えることはざらです。でも、自分もそうですが、上には上がいることをみんなよく知っているので、やっぱり謙遜して「うちのサイトなんてたいしたことないしぃ」と言ってしまいがちと思います。

「うちは有名サイトなんだよ」と言っちゃう人はそれはそれですごいわけですが

でも、そのことを自分がどんなことを書いてもいいんだという免罪符として使う人がいます。どんなことを書いてもいいわけではないのに。

と、上記文章だけだと違和感を持つ方も多いでしょうけれど、当然のごとく、ここで言っているのは、そこにそれを書いたことで大きな波紋が広がり、様々な害悪が発生することもあるんだよ、というのが言いたいわけです。

でもまぁ、本人の気持ちからすれば、「今までと同じようにやってきただけなのに」と思うのが当たり前で、開き直りたい気持ちも当然ですし、私なんかも責めるようなことはしたくもありません。
ただ、もし「影響力を考えてよ」といった指摘がなされた時に「うちは個人サイトだから」というのは反論にはなっていないなぁ、とは思うわけです。その「影響」が具体的に何であるかによって大きく変わるでしょうけれど。結局問題は発言の正当性(と倫理)だから、発言者の立場は関係ないってことですね。ただ影響力が大きいと発言の正当性に言及される確率が高くなるってだけで。


参考:
不満を人に伝えるのはよいこと、不満を人にぶつけるのはみっともないこと ここで予告していたネタだったことを思い出し
ARTIFACT ―人工事実― | 個人が好意でやっているものに対する受け手の態度
こちらは、影響力に対する批判の話ではなく「客」として注文を出してプレッシャーをかけるような行為についてですので、ここに出した話題とは違いますが、コメントが関連してます。あくまで参考として。

私はこの記事における加野瀬さんの「読者の判断に任せる」というポリシーに共感するのですが、「読者の判断に任せる」の意味を履き違えて理解している人がいることは危惧します(*)。また、先にも書いたとおり、「個人サイトだから」というのは言い訳にならないと思います。個人サイトであろうと影響力に応じた慎重さは必要だと。影響力を持ってしまった個人が慎重にしたくない場合は別のサイトを立ち上げればよいわけで。アイデンティティというレッテルから抜け出すことにこそ「匿名」が適しているわけですし。
注意:「影響力」は「単に有名であること」とは違います。

*:読者の反感を浴びることで責任を取るケースがほとんどですが、情報発信にはいくら言論が自由と言えども反感/糾弾じゃ済まないような被害もあり得るわけで。

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2004.05.20

責任を取らない人からはいずれ自由が剥奪される

あぁ、こういう言い方した方が説得力ありそうね~。
参考:自由には必ず責任伴う

こちらを見て、ふとこの言い方の方がいいかな、などと思ったのです。先にも書いたとおり、「自由」ってのは「不条理な規制/強制からの脱却」なわけで、それができるのは規制されずとも、自ら責任を持つことができる、すなわち自己責任だからこそ。「これこれの自由が迫害されている」と声高に叫ぶ人の中には少なからず、迫害されるに足りる無責任があった可能性を無視している。
自由だけを求めていると、どこからとも無く大きな圧力が迫ってくるってことね~。

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2004.05.13

正当と不当

最近の私の興味はここにあったんだなぁ、きっと。
「批判と中傷の区別」のテーマでもそうだけど、価値基準とか「リベラルって何?」とか。
そして、ずっと思っていることは、

いつも一部の人の悪い行いの方が目立ち、悪い行いの方がレッテル化する

ってこと。「悪い行い」は「悪い側面」とさらに一般化することもできるけどどんどん当たり前な文章になるからこんな感じで。人間として普遍的なことなんだろうけど日本では特にそれが顕著らしいという話もそこかしこでされてますね。その辺は「褒めず、叩く文化」があるのかもしれませんが、定量的に観測してる所はあるんかいな…。

レッテル視を指摘して、該当しない人を擁護したって全体としての評価の流れはほとんど変わらないのが現実。
この記事で言っている「悪い側面の過剰なレッテル化」だって、そうなるまいとする人も当然多数いるのに、全体としては変えようの無い事実であり、これからもまだまだ変わらない。「変わらないだろう」というレッテルが嫌だから「変えたい」と思ってるけど。

「自由の意味を履き違える輩」と、「考えることができない人」がこのスパイラルを後押しするんだよなぁ。「自由」を求める人の中に、正当な自由と単なる我が侭を求める人がいて、我が侭だけの人と、我が侭な人の意見ばかり見えてしまう人のせいで正当な自由まで要求できなくなってしまうような構図。

そうそう。最近まで知らなかったのですが、東浩紀さんの「動物化」というキーワードは、この「考えることができない人」のことを言っているらしいですね。

週刊!木村剛: モノ書きの老婆心:「匿名性」を護るために
に感銘を受けて独り言。当然この話題だけではなく、Winny の件や人質事件や、その辺のネット上にいる大きなお子様との対話なども踏まえて。あ、リンク先に関する言及は実名/顕名/匿名の得失にも追記してます。

(追記)
まだ見てくださる方が当分いらっしゃりそうなので、ここに追記します。
スパイラルという所だけに反応してですが、こういった構造について、
圏外からのひとこと(2004-05-17):いまお互いの信用という面で負のスパイラルに落ちっていると思うよ日本
という言葉が。注:言葉を発したのは名無しさんです。
是非、リンク先まで見に行ってみてください。

あと、「自由を履き違える」に付いても付記します。
このような文脈での「自由」は、「不条理な規制/強制からの脱却」を意味しています。「自由」を「何をしてもいい」という意味に捉える方がいらっしゃいますが、それが誤りということです。「言論の自由」は何を言ってもよい、という意味ではないでしょう。「言論の規制は許されない」という意味でしょう。同義のようにみえますが、ニュアンスの違いが解りますかねぇ?「自己責任」の俺様定義でも触れたけど、自分を許したり、他人を糾弾するために用いる言葉じゃないと思う(思いたい)わけです。

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2004.05.08

実名/顕名/匿名の得失

批判/中傷関連のテーマが書きかけのままですが、津村さんの記事を木村剛さんが紹介する形でネタふりされたのをきっかけに、元々書きたかった表題の整理をしてみようと思います。整理といっても思いつくまま特徴を書きつらねているだけですが_o_。そういう意味でほとんどの場合に様々なソースにあたって記事を書かれるお二方には感服します。

(追記)Books by 麻弥~ News Collector ~Old 00000028~で紹介いただいている麻弥さんは「筆名」という用語を使われています。私はこの記事で「顕名」と表記していますが、この用語は「匿名でないもの」位の意味であり、本当は実名も含まれるので、筆名と記すべきだったかな、と思っております_o_。

実名(捨てることのできないアイデンティティ)

  • リアルでの評価に直結する
  • リアルでの評価がネットにフィードバックする(集客力などの面で)
  • 会話相手に安心感を与える
  • 情報の出力に規制がかかってしまう
  • 意見の表明に自制がかかってしまう
  • 追い込まれると黙るか壊れる(キレる)傾向 → いずれにせよあとに響く(ほんとは謝ればいいだけだけど)
  • 様々なレッテル被害を受ける
  • 自分が実名であるが故、匿名者を特にレッテル視する傾向
  • 品性を過剰に問われる
  • (追加)細かい部分まで主張し辛くなる(余計な揚げ足取りを避ける心情)
  • (追加)恥をかくことへの恐れからの労力負担(慎重にならざるをえない傾向)

顕名(いわゆる固定ハンドルと思ってください)

  • ネット上だけでの知名度で、自己顕示欲を満たすことができる
  • 大抵のことは言うことができる
  • 人格を詐称することができる
  • いざという時にリアルのアイデンティティに結びつけることができる
    • ネットのアイデンティティが評価されていたら、それをうまく結びつけることで特定のリアルの交渉ごとを有利にすることができる
    • ネットのアイデンティティそのものに対してオファーが来ることがある
  • いざという時に捨てることができる
    (そのネットでのアイデンティティが捨ててよいアイデンティティであれば)
  • 得体の知れない人というレッテル被害を受ける

匿名(その意見だけ)

とりあえずこんなもんで。書き足したり配置など調整するかもしれませんです(特に匿名の特徴は全然書き足りてないです_o_)。

ま、つまりは顕名というのは最もお得、言い替えれば卑怯な手段かもしれませんね^^;。どの手段にしても実際に得するかどうかは個人の資質次第なんですけどね。生産的なことを何もするつもりがない人にとっては匿名が最もお得でしょう。逆に言うと、実名でネット活動を行おうという場合は、大抵は自分が信じる生産的な何かをやろうとしています。確信犯(※)となる場合もありますが:p
※受け入れられるかどうかはわからないという意味ですね。
根本的には、実名の特徴に挙げたとおり、リアルでの影響力を上げたい場合か、リアルでの影響力を持ち込みたい場合、ということになり、それをやっかむ人がいて、そういう人が実名という行為自体を理由に攻撃するケースも多く、そしてそれは中傷と判断されることも多かったりするんですが。そういうのは感性の違いなんだからいぃじゃなぁ~ぃ?(by 波田陽区…ではないな。残念っ!)とか思う。


あ、自分の立場ですが、私は本名同然です。一応本名は木下信といいます。当初はちょっとした引っかかりがあって(実は今もあるのですが^^;)、ここから自身の web ページへ辿れないようにしたりしていたのですが、そろそろ自ドメイン上にサーバ引っ越しも考えていたりするので、いずれにせよリアルのアイデンティティに結びつくようになります。いくつかの関係者の方にすみませんしないといけない(と思っているだけで実行できていない)ことがあるのですが…^^;
(追記)本名はまぁ、お二方に対する敬意みたいなものとして書きましたが、私個人の感性としては、名を明かすかどうかはどうでもいいと思っています。実名の所に書いた「匿名者を特にレッテル視」することを嫌う立場です。もちろんいわゆる実名派の方が匿名について述べる時、常にレッテル視しているとは思っていないのですが、「匿名」と一般化して語る時に得てして「レッテル視」と読まれてしまうことを危惧はします。もっと言うと、こちらが実名でなければ主張を丸ごと無視するような人は願い下げですので、実名は知りたければ調べれば解る、程度にしか出さないと思います。


さて、今さらこういった整理をしようと思ったきっかけは、実は以前津村さんの記事の中に興味深いことが書かれていたからでして。あまり具体的事象と結びつけられたくないとのことでしたので、場所も特定せず引用ではなく要約にて。

実名と匿名の議論においては、一見互いが誠実に対応していたように見えて、実名側が非を認めざるを得ない場面で突如「匿名が相手だから」という理由を後付けして議論を打ち切ろうとする=実名側が不誠実な対応をすることがある。

という話です。つまり、実名側の方に逃げ道を与えてしまっているから匿名は損である、と。大変興味深いですね。ここで実名側は弱者と考えることができます。そして、この構図は弱者に与えられる権利の濫用に他ならないと思います。

このようなことが実際に起こった場合、ほとんどの場合はそれを見た人は「(実名側が)議論に負けて逃げた」という印象を持つと思うので、現実には実名に有利なことはほとんどないわけですが、そんなことはしていなくても、あとに述べるように中傷やずれた論点を無視しただけで「議論に負けて逃げた」と思ってしまう人も世の中には結構な数いてしまうのが厄介ですね。批判と中傷の区別、あるいは「論点」を見定めることができない人。私は今はそういうのは「勝手に思っておいて」で済ませますけど。

他にも断片的に気になっていることはたくさんあるのですが、まだ整理はつけていないです。整理とは分析という意味であり、自分のスタンスは既にある程度明確ですが。

さて、木村さんの記事やそのトラックバック、および津村さんの記事群を読み返した中でいくつか気になる箇所を挙げてみます。

以前、とあるメーリングリストで、実名で発言している人の本業での仕事ぶりや人間関係などの誹謗中傷を、匿名で発言し続けた人がいました。そんなとき、実名発言している人がどんなに理路整然とやりとりしても、絶対に負ける。

注:実際の引用元はハンドルネームと匿名。ネットではどちらという所だそうです。

「負ける」ということにはならないと思うんですよね。私は論点と無関係な所をつつかれても議論には影響しないと考える人です。どちらかというとそういうことを言い出した人たちのダメさ加減が浮き彫りになる。ただ、匿名の場合、「言い出した人」を人とみなすことが困難であるケースがあるわけですが、言われた「実名の人」の評価や議論の有利不利に影響があるわけではない。本来は…。

問題はこれを「負ける」と思ってしまう、あるいはこれで「勝った」と思ってしまう人々にあるように思うわけです。大きな声(※)しか見ない人々。

※嘘でもインパクトのある内容、とかのことです。マスメディアが得意ですね:p。マスメディアに流されるタイプの人々、と言い変えることもできるわけだ。

問題だけれど解消はし得ない問題ですけどね。せめて啓蒙はしていきたいものです。

匿名性というセーフティネットの中で許される言論の自由とは如何なるものであるべきなのか、あるいは、匿名の方はコミュニティを壊す権利を持っているのか

他の方も突っ込まれていますが、「権利」はないですね。あるいはその行為も権利であるとするなら、「権利」と「権利の侵害」は表裏一体ってことで、コミュニティを継続する権利を侵害する権利は認められない、と。

権利と自由の違いって何だっけ?と思ったけど、あんまり明確に違いを定義している所が見つからない…。こんな感じですかねぇ。

両者の違いは何かと聞かれたら、どう答えるだろうか。なにか気づくことはないだろうか。そう、自由の方が権利より人間の内側というか身近というか根源的というか、とにかく空気のように必要なものだ。何かを考えることを強制されたり、何かを表現することを制限されたり、神や仏を信じることを強いられるはたまらない。こんな当たり前のことが「自由」として憲法に保障されているのだ。

私的には「自由は与えられなくとも存在するもの、権利は他者に認められて存在するもの」といったニュアンスを感じます。ただし、自由は当たり前に存在しても、その結果責任は付きまとう、と。

権利と自由関連でもう一つ。

「勿論、自分の下した判断に対する責任は自分で取る。しかし、与えた命令を正確に遂行する責任は相手にある。」ですが、この言い方は筋が通りません。自分自身の取る責任には自由が伴っています。ですが、命令された相手は一方的に責任ばかりを負わされています。これは命令者の単なる我が儘です。

ふむふむ、我流「自己責任の原則」はこれですな^^;。話が与太ってきたけど、部下に自由を与える責任者って大変ねぇ^^;;。でも、それこそが組織をうまく回らせる秘結だったりするからこれまた大変。

ちょっと戻して、「自由に付いてくる責任」を放棄する手段として匿名が利用されるのは確かなわけですが、匿名の公益を再度考えてみると、「発言に責任を持つほど思考/言語を駆使する余裕/能力が無いが、感じたことを表明したい」人は多数存在します。そういう人たちに権利を与えた。そしてそういう「一部の強者以外の意見」を見ることができるようになった。告発可能性/現場の声といった話ももちろんありますが、これは今回の問題とは関連しないので置いておいて。「思考/言語を駆使する余裕/能力が無い」人はそれができる人と比較すれば「弱者」ですね。さぁ、またでてきましたね。「弱者に与えられる権利の濫用」が。このテーマ、muse-A-muse:儀礼的無関心と「ウザイ」の幼稚性の記事で見て注目していたのですが、その後、圏外からのひとこと(2004-04-21):弱者の特権を権力として濫用する者として記されているのを見て(議論沸騰してますね^^;)、好んでこの表現を使ってます_o_。私的定義としては「弱者への同情や救済を悪用する行為」ですかね。

実名=弱者
実名でものを言えるほど議論に達者でない人=弱者
匿名=強者

ですか。自分は議論も文章も達者でない人で、弱者と思っていますが、特権を過剰に使いたいとは思わないし、自分以上に弱者に相当する人もいっぱいいるだろうと思っています。

いやぁ、書いてるうちに(いつものように-_-)論旨がぐちゃぐちゃになってきた^^;。この辺にしとこ…。

ところで、人に何かを伝えたいという場合、伝わりやすさの尺度の一つとして自身のプライバシーをどれだけだしているか?というのは絶対的に存在します。津村さんがテーマにされているのはそのあたりですかね。その話題はまた別途触れたいところです。

(追記)

自分の主張を全て知ってないと反論すべきではない、ということになっているらしい。

あちらのコメントにも書いたんですが(向こうでは向こうの場に合わせた書き方にしてた)、トラックバックが来ていたことに気づいたので追記&トラックバックを。
この記事では純粋に匿名/顕名/実名をテーマにしているので言及しませんでしたが、元の木村さんの記事にある上記のような主張は、確かに受け入れがたいです。私は「匿名」をテーマにしたネタ振り記事だと勝手に解釈していたので例示の部分は度外視してましたが、切込隊長さんの言うような「中傷ではなく批判として妥当である」という部分は本来最も重視すべきと思っています。ただ、木村さんが例示された匿名コメントは、それだけから根拠が読み取れない多数の人にとっては中傷にしか見えませんので、木村さんの「事実を踏まえた上で主張してもらいたい」という主張を一方的に非難は出来ないですね。「なぜありもしないネタと思うのですか?」という言い方ができればベストと思いますが、匿名者、且つ他人のコメント欄の発言を相手にそれを述べるのもやりにくい気もしますからねぇ。

さて、私は木村さんの記事を「匿名」をテーマにした記事である、と解釈したので、その観点に立つと、引用した記事中で述べれられていることは、そのテーマから外れた論点である、ともいえます(別途話題にして欲しいとは思いますが)。そうすると、今回の隊長(と書く方がやっぱ楽だな^^;)のツッコミは今回のテーマとしては「無視」され得るツッコミだなぁ、と思うわけです。

ある人が話したいと思っている論点に紐付けて自分の言いたい論点を述べるのは相手に逃げ道を与える結果になりやすい、と思ったりする。
(追記)コメントに書いた件も踏まえてさらに。主張の枝葉とはいえ他人に失礼な行為をしたことを指摘された場合、当然それに責任を持って対応する必要があるでしょうね。ただし私は今回の場合は、元の匿名者は根拠を示さず、しかも木村さん本人に向けずに言っており、その点について批判することは一方的失礼にあたらないと思います。

それはそうと、長文が嫌いそうな(と勝手に思っている)隊長がこの記事を読んでトラックバックしたというのがある意味すごい。読んではいないかもだけど^^;。

(追記)どうも木村さんへのトラックバック記事群の中には、「批判/中傷」を区別なく「自分の意見への反論」とみなして「過剰反応」と述べたりする論調が散見される気がします。批判なのか中傷なのか、言い換えると上述したように「根拠があるのかないのか」は最も重要視しなければならないです。批判と中傷をいっしょくたにしてその対応を語ることはできません。また、批判であるか中傷であるかは発信者が決めることではありません。そして、今回例示された匿名の方による発信は「中傷」でしょう。隊長による補足により「批判」足り得ましたが。

また、木村さんや津村さんは論点において「中傷」を前提にしています。そのことが伝わらなければミスリードになりがちなわけですが。自分の記事もどう読まれてるもんだか^^;。まぁ木村さんの例示された「中傷」が匿名ゆえに起こったことではないことは明らかではありますが、元々津村さんが述べているのは、主張と無関係なはずの「相手が実名であるが故の先入観」「相手が匿名であるが故の先入観」が会話/議論に与える影響についてです。木村さんが本筋からずれた具体例を出してしまった結果なんですかねぇ…。元のテーマには影響しないのに。こうやって「細かい部分まで主張し辛くなる」わけですね。

おっと、今見たら木村さんの新しい記事が。
週刊!木村剛: ご批判はできれば直接私に対してお願いしたい
そうですね。あの例示は木村さんを中傷しつつ、結局は中島さんが好きでやっている行為を他人への中傷でもって非難しているようなもので、それを問題視するのは当然ですね。この点は津村さんもそういった主張をされていましたし。「匿名」であるかはあまり関係が無いですけど^^;。

木村さんの論理展開に関して疑問視する声などもあるようで、今回のテーマと例の結びつけ方などはまさにそういうことになってしまったように思いますが、木村さんは誠実ですね。論理展開云々は「人は間違えるもの」なんだからそんなことはあって当然。指摘を受けてどう対応するかが重要ですね。

「あんな行為はカッコわるい」という世論を再確認する機会として利用なさったのではないか。

あぁ、ツッコマブルな記事に仕立てあげたわけですね。まさしく^^;。「匿名」への強引な結びつけに関しては狙ってるともとれますね~。:)
それでも、「自著を読んでから批判」の部分はちょっと穴になってしまったなとは思いますけど、全体としては些細なことですねぇ。

(追記)
週刊!木村剛: モノ書きの老婆心:「匿名性」を護るために
あぁ、これは素晴らしい文章。連続した記事群としてみると論点がずらされたように見えますが、この記事単体はツッコミどころがないです^^;。木村さんの論点は最初からここにあったのかもしれませんが、元の記事からは少々読み取りにくかったですね^^;。
要約すると、「匿名だから中傷したって逃げられるという幻想」に関する話なわけで、これは私も含めて思っている/主張されている方もたくさんいらっしゃったのですが、これほど説得力のある、別の言い方をすると心に響く文章は見たことがないです。きっと話題になりますね。

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2004.04.29

我が侭の増幅、あるいは不感症

批判/批判の受け止め方関連その2です。後でまとめようと思っていますが、インターネットで情報発信する際の勘違い集という形で挙げていっています。まぁたいていのことはインターネットに限定されませんけど。

自分の自由を主張することには躍起であるが、他人の自由なんて知ったこっちゃない、という考え方は世の中にそこそこはびこっているといえるでしょう。我が侭です。我が侭には論理や感性による説得は通用しません。他人の痛みが解らないからですね。それもひとつの感性ではあるわけですけれど。

以前、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という思考実験に少し参加したのですが(その結論は当然の如く出ていないのですが^^;)、「(自分は死にたくないけど)人を殺したってべつにいいでしょ?」「殺したいから殺したんだよ、なぜ悪いんだよっ」みたいな人にどうすれば理解してもらうことができるでしょうか?

「自分は死を恐れていないから」どころではなく、何をどう言っても他人の痛みを実感することができないタイプ-_-。

もちろんここまでの人にはなかなかお目にかかれませんが、インターネットでは現実世界よりもタガがはずれる傾向があるらしく、これに近い無理解も見つけることができたりします。旅の恥はかき捨て、インターネットの恥は書き捨て、ですね。(追記)やべやべ、字、間違えてた^^;。書き捨てないようにしよう。

私的な「大人」の定義のひとつとして、以下のようなものがあります。

小さい頃は他人の痛みを知ることができなかった。
大人になると他人の痛みも知るように、あるいは知らなければならないようになる。

そして今は、大きくなっても他人の痛みを知ることができない大きな子供が増えつつある時代

恥をなんとも思わない人がいます。それはそれで何かを生み出す能力に転化させている方もいらっしゃるし、私から見ればすばらしいことと思ったりもするのですが(私は本質的にはたぶん臆病者^^;)、恥だけでなく他人の痛みまで忘れないようにしたいですね。

インターネットでわりと見かける「他人を中傷していることに(言われてもなお)気づけない人」は、「いじめをする人」と同じ心理な気がします。「からかってるだけだよ/ネタだよ。何でごちゃごちゃ言うんだよ。」と。そういう人に気づかせようとしても、きっとしらけられるだけなのでしょうね。

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2004.04.19

インターネットで「陰口」は叩けない

これから数回に分けて、「批判の受け止め方と批判行為」について書こうと思います。

あらかじめ書いておきます。当記事は感性を否定するものではありませんが中傷を否定するものです。

まず、「批評/批判と中傷の違い」について書いておきます。簡単なことですね。根拠があるかないかです。

人間は陰口が好きなようです。当事者に知らせずに人に関する評価/感想を述べあうという行為は日常的に行われています。ただ、そういう行為全般を陰口とは呼ばないですけどね。通常、陰口とは当人に見えないところで当人の悪口を言う(中傷する)ことであり、当人に聞かれることが後ろめたいと自覚しているような話題を指します。また、特にここでは中傷に該当しない根拠を伴った評価の場合は、当人に見えないところで言っていても陰口とは呼ばないことにします。

私は、陰口は嫌いなので、基本的には当人に聞かれても堂々と対応できるようなことしか言わないように心がけています。例外は、当人の今後の思考/行動に悪影響を及ぼすような内容だが、相談しておく価値のあること、といった場合です。教育をする人の立場を想像すればご理解いただけるかと思います。もちろん中傷のつもりはないのでそれを当人に聞かれても自分は後ろめたくはありません。

さて、web 日記/blog などは「公開日記」であるわけですが、そこで他人を侮辱/中傷するようなことを書いていながら、都合よく「公開」であることの意味を忘れて「個人の日記だから何言ってもいいだろ」といったことを言ってしまう方がいます。

もちろん発言自体は自由です。

でも、内容によっては反論が発生することも必然ですし、何より反論することも自由です。

反論に応えない自由はありますが、反論するなというのはあまりにも周りが見えていない言説です。反論が欲しくないのであればインターネット上に他人への侮辱発言を「公開」してはいけません。「現実世界で普通にしゃべるのと同じくらい気楽に書くんだ」と言っている方、気をつけて下さい。

ネット上に書くということは既に陰口足り得ません。

ここで、反論には、感性/思想の違いから来るものと、事実ではない、あるいはミスリードであるといった指摘があるのですが、前者を不要と考えるのは(多少もったいないこととは思いますが)自由と思います。ここで話題にしているのは後者です。これについては反省すべきでしょう。たまに自分への批判を矮小化するために意図的に混同しようとする人がいます。

日記の中でぼそっと、集団、或いはひどい時は個人を特定できるような言い方で、状況をよく知らないで、或いはメディアの誘導に乗せられて批判を行うということがあります。その行為自体も問題ではありますが、全ての人にそれを駄目だと言うのはあまりに狭量であるとも思います。私もよく調べずに批判的情報発信を行う事もあるでしょうし、説明できない感情の表出も重要な情報だと思っていますから。ただ、批判された側あるいは客観的に見ている第三者が、その批判は間違いである、と指摘/反論することは当然のごとくあり得ます。この反論を指して「噛みつかれた」などと侮辱する人がいます。この勘違いはやめたほうがよいです。たとえ相手に通知などをしていなかったとしても、噛みついたのは自分です。また、批判が発生しないことがあるのは、その言説が正しいからとは限りません。みんな、すべての誤りを指摘して回るほど暇じゃないのです。
(追記)「同意の旨の意見はあった」という多数決論理を持ちだす人もいますが、たまたま自分と同様に専門家で無かったか、単に自分と馴れ合いたい人かもしれませんよ、と。和を保つことと馴れ合うことは違います。これはいつしか別記事にて。

この記事では個人や集団は特定しません。行為を特定しています。思い当たる人でこの主張に間違いが見当たらないと思われたなら、自戒しましょう。この記事の内容が誤りであると思ったなら、どうぞご指摘ください。

なぁんていっても、ここで書いたようなことにもろに該当する人ほど自己正当化が激しかったりするので書いてもなかなか効果がないわけですが。ならばなぜこういう記事を書くかというと、良識のある方が道を踏み外さないよう再認識してくださるという効果はあるからです。本当は自分に向けて/自己の思想の整理という意味が一番強いというのはいつも書いている通りなのですが、教条度を上げて書いてみる実験です^^;。

今「blog で簡単にホームページを」という類いのキャッチコピーに乗せられて参入してくる方は、どれくらいが「全世界に公開」の意味を解っているんでしょうね。それを知らなかった/考えられなかったことは罪では無いと思います。批判を浴びた時に気付けるのであれば。ここで問題点として、騒ぎになるほどに指摘/批判に混じって中傷が現れるのも世の常なわけですが、全てを中傷とみなす自己中心的思考はやめましょう。

ただ、人は本質的に陰口が好き(※1)なわけで、web で陰口を言える仕組み(※2)というのを考えたりしています^^;。私は使いたくないですけど。

※1:私だって、陰口が嫌いと言うのは理性で抑えているのであって、いつ無意識に陰口に該当する行為をしてしまうか解ったものじゃありません。そういうのを正してくれるコミュニティなら属したいですね~。

※2:2ch がそういう使われ方をする場と勘違いしている人が多いですが、2ch でも中傷は嫌われます(ここではネタと中傷の区別というまた難しい問題があったりしますが^^;)。ただ「根拠をうまく説明できないがこう感じる」といった正当かもしれない意見を述べるのに適しているということです。

参考:
思い込み(=レッテル)と批判と紛争

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そしてどんな立場の人間も上を羨み、下を嘲る

ネタ元を失念しましたが_o_、おそらく 2ch のどこかで見た言葉。

上を目指し、下を微笑ましく思っておけばよいではないですか。

などと言ってもそうでないのが人間なんでしょうか…。

私はというとそういう人たちも自由だと思っているので、
そう思っていること自体には問題を感じないわけですが、
非努力家のための世の中になってきていることは
ひしひしと感じていたりします。

思うことは自由ですが、努力を貶さないようにしましょう。
筋が違うならそれを教えてあげればいい。

言われた側は、批判と中傷の違いを区別できるようにがんばりましょう。
言った側は、それが的外れである可能性を念頭に置いておきましょう。

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