2004.06.10

セルフハンディキャッピング:都合よく自分を弱者にしたてあげる

誰かを責めたいというよりは自分が反省しなければいけないという意味で、この「弱者の権力の濫用」というキーワードが私にとってとても大事。
たとえば私が「貧乏だから」と言うとき。 たとえば私が「女だから」と言うとき。 たとえば私が「若いから」と言うとき。 たとえば私が「就活うまくいかないんだよね」と言うとき。
私はこの狡い卑屈さで相手を攻撃している。相手がそれに対して絶対反撃できないとわかって。だってこれに対して相手がどんなに正論で返したとしても、こちらが弱さを武器にしてひがみ倒せば相手はもうそれ以上なにも言えなくなる。相手にはどうしようもないことだから。

よく噛み締めておきたいですね。

如何様にも:みっともない

あなたはセルフハンディキャッパーでしょうか?
自分はセルフハンディキャッパーだろうか?

ただ、もちろんセルフハンディキャッピングはすべての人間が無意識に使ってしまうものでもあります。問題は「だから、何?」という部分でどう考えているかではないかと思ったりしました。「~であることに免じて大目に見てよ」というのはありだろうと思います。問題は自分の責任が無いかの如く振る舞う(責任転嫁)ことでしょうね。

ところで、前者のコメント中の poff0516 さんによるコメント。

唯一できる反撃がありました。


「わたしもだけど」です。

あはは。ハンディは帳消しですな。
みんな、それなりに大変なわけですよねぇ。

前にこんなことも書いたなぁと、ふと思い出しつつ。

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2004.06.08

プロパガンダとは

移転しました。
<a href="http://www.sk-jp.com/mt/philosophical/archives/2004_06/08_185411.html">philosophical: プロパガンダとは</a>

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2004.06.07

自分が不満なのかみんなが不満なのか

えーっと既に議論がなされて収束気味っぽいらしいのですが、その前に書きかけていた記事です。議論自体は追い切れていません_o_。

圏外からのひとこと(2004-05-17):みんなってあんたと誰?
より。

「お前にはみんな迷惑してんだよ!」って何回も言われたことあるんですけど、「みんなって、あんたと、あと誰?」って聞くと、たいていは答えがない。不思議ですね。

はてなダイアリー - ネ タ の タ ネ
への Bonvoyage さんによるコメントだそうです。

<私>の代弁をよそおったモラル支配、ヤになる程ありますですねぇ!とまれ、これも 20040424#p2 でカキコした「恣意的強弱二者関係への追込み」なんですよね~。これは裏返せば、自己モラルに背く者への反感(不安)感情をモラル化して自分ダケぢゃないと責任解除し、同時に自己モラル強化=正統化することによる、自己安定化行動だったりするのでしょうねぇ。

と、hizzz さんがコメントされています。

この問題、確かに重要と思うわけですが、一方で私は以下のような思想も持っています。

感情に基づく「不満」といえどもそれを当人に伝えるのは良いことと思います。その時、感情をぶつけるのではなく「~ような主張/物言いでは~のような気分になる人も多いのではないですか?」とか少し客観的になって当人に理解してもらおうという態度で挑むことができればよいんだろうなぁ、と。
私は何かを述べる時に別に対象に向かって話しかけなければならないということはないと思っています。自分のことを話している人が自分に対して話しかけていなければならないというのは窮屈だなぁ、と。陰口に関する話題でも書きましたが、自分なりの根拠が述べられている、或いは根拠の説明の意思がある評論については、行動様式/人格は度外視して拝聴します。

元の問題を鑑みると前者引用は以下のように書くべきだったなと思いました。

その時、感情をぶつけるのではなく「~ような主張/物言いでは~のような気分になる人も多いのではないですか?少なくとも私だったらそう思います。」とか少し客観的になって当人に理解してもらおうという態度で挑むことができればよいんだろうなぁ、と。

書いた当時だって気分としては修正後と同じだったはず。
後者引用先で述べているように、

そのような行為に反射的に拒否的な言動をとってしまうということは、きっと多くあるのだと思います。私はそういうのはレッテルであると考えていますが、実際にピントはずれな分析が多いことも確かですので、気持ちは分かるわけです。

こういう現象もあることは理解しています。

これらの境界線は何だろうと思ったわけですが、言わんとする側の気分と聞いた側の気分に多分な相違があるんですね。
聞いた側の気分は「みんなってあんたと誰?」で象徴される感覚ですね。では「みんな」とまでは言わずとも、自分以外の他者もそう思ってるはず、という言い回しをすることによって、話者はどんな効果を狙っているのでしょう?

当然のごとく、「無視されざる意見であることの強調」なわけです。「俺はこう思う」だけではそれが正当な意見であっても「へぇ~、そう」で捨てられる可能性が高いことも事実です。我が侭を押しつけようとしているだけ、と見られるわけです。だからといって、存在するか解らない他者を引き合いに出した場合は、「モラル支配」に見えるわけですか。

結局、またしても「正当と不当」が鍵になるわけですが、「みんな」を引き合いに出すのが正当であるか不当であるかも結局主張が正当か不当かによって異なるわけです。というより、「みんな」と言ったかどうかは意見の正当性とは全く無関係ですから、実際のところはそこに反応すること自体が無意味なんですけどね^^;。もちろん不当な意見を「みんなこう思ってるんだよ」なんて言う人が「不快」であることは全く同意しますです。

で、私としては、(それが正当な意見であろうとも)自分への反論を聞く耳を持てない人が少しでも耳を傾けてくれるようにするために、実際にその意見が多数であるというある程度の確信があるなら「そう思う人が多いと思いますよ」と言うことはあると思います。

この話題の関連議論ですが、詳しくは見れていないのですが、どうも多数のコンテキストが存在し、それぞれのコンテキストにおける正論が述べられている印象を持っています。当然この記事で言っていることも完全に一般化はできていないと思います。そもそも「みんなってあんたと誰?」はすごくキャッチーな言葉ですが、この言葉だけではコンテキストが全く限定されていないので、いくらでも反論が出てきますもんね。

そうすると、いろいろなコンテキストをぶつかり合わせる形で議論するのではなく、それぞれのコンテキストにおける解釈を見て、自分の今後の行動の参考にするのが良さそうですね。

この議論は、こちらで言及記事をリストアップしてくださっています。
はてなダイアリー - Bon voyage! ~日常へのシステム・アプローチ

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2004.06.04

自身の影響力を故意に矮小化すること

批判への対応関連その3。>その1その2

インターネット上での有用な情報発信を続けていくと、その「人」がネット上の狭い範囲でとはいえある程度有名になったりします。少なくともそれを始める前と比べて、あなたのことを「知っている」という人は数百/数千人単位で増えることはざらです。でも、自分もそうですが、上には上がいることをみんなよく知っているので、やっぱり謙遜して「うちのサイトなんてたいしたことないしぃ」と言ってしまいがちと思います。

「うちは有名サイトなんだよ」と言っちゃう人はそれはそれですごいわけですが

でも、そのことを自分がどんなことを書いてもいいんだという免罪符として使う人がいます。どんなことを書いてもいいわけではないのに。

と、上記文章だけだと違和感を持つ方も多いでしょうけれど、当然のごとく、ここで言っているのは、そこにそれを書いたことで大きな波紋が広がり、様々な害悪が発生することもあるんだよ、というのが言いたいわけです。

でもまぁ、本人の気持ちからすれば、「今までと同じようにやってきただけなのに」と思うのが当たり前で、開き直りたい気持ちも当然ですし、私なんかも責めるようなことはしたくもありません。
ただ、もし「影響力を考えてよ」といった指摘がなされた時に「うちは個人サイトだから」というのは反論にはなっていないなぁ、とは思うわけです。その「影響」が具体的に何であるかによって大きく変わるでしょうけれど。結局問題は発言の正当性(と倫理)だから、発言者の立場は関係ないってことですね。ただ影響力が大きいと発言の正当性に言及される確率が高くなるってだけで。


参考:
不満を人に伝えるのはよいこと、不満を人にぶつけるのはみっともないこと ここで予告していたネタだったことを思い出し
ARTIFACT ―人工事実― | 個人が好意でやっているものに対する受け手の態度
こちらは、影響力に対する批判の話ではなく「客」として注文を出してプレッシャーをかけるような行為についてですので、ここに出した話題とは違いますが、コメントが関連してます。あくまで参考として。

私はこの記事における加野瀬さんの「読者の判断に任せる」というポリシーに共感するのですが、「読者の判断に任せる」の意味を履き違えて理解している人がいることは危惧します(*)。また、先にも書いたとおり、「個人サイトだから」というのは言い訳にならないと思います。個人サイトであろうと影響力に応じた慎重さは必要だと。影響力を持ってしまった個人が慎重にしたくない場合は別のサイトを立ち上げればよいわけで。アイデンティティというレッテルから抜け出すことにこそ「匿名」が適しているわけですし。
注意:「影響力」は「単に有名であること」とは違います。

*:読者の反感を浴びることで責任を取るケースがほとんどですが、情報発信にはいくら言論が自由と言えども反感/糾弾じゃ済まないような被害もあり得るわけで。

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2004.05.20

責任を取らない人からはいずれ自由が剥奪される

あぁ、こういう言い方した方が説得力ありそうね~。
参考:自由には必ず責任伴う

こちらを見て、ふとこの言い方の方がいいかな、などと思ったのです。先にも書いたとおり、「自由」ってのは「不条理な規制/強制からの脱却」なわけで、それができるのは規制されずとも、自ら責任を持つことができる、すなわち自己責任だからこそ。「これこれの自由が迫害されている」と声高に叫ぶ人の中には少なからず、迫害されるに足りる無責任があった可能性を無視している。
自由だけを求めていると、どこからとも無く大きな圧力が迫ってくるってことね~。

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2004.05.13

正当と不当

最近の私の興味はここにあったんだなぁ、きっと。
「批判と中傷の区別」のテーマでもそうだけど、価値基準とか「リベラルって何?」とか。
そして、ずっと思っていることは、

いつも一部の人の悪い行いの方が目立ち、悪い行いの方がレッテル化する

ってこと。「悪い行い」は「悪い側面」とさらに一般化することもできるけどどんどん当たり前な文章になるからこんな感じで。人間として普遍的なことなんだろうけど日本では特にそれが顕著らしいという話もそこかしこでされてますね。その辺は「褒めず、叩く文化」があるのかもしれませんが、定量的に観測してる所はあるんかいな…。

レッテル視を指摘して、該当しない人を擁護したって全体としての評価の流れはほとんど変わらないのが現実。
この記事で言っている「悪い側面の過剰なレッテル化」だって、そうなるまいとする人も当然多数いるのに、全体としては変えようの無い事実であり、これからもまだまだ変わらない。「変わらないだろう」というレッテルが嫌だから「変えたい」と思ってるけど。

「自由の意味を履き違える輩」と、「考えることができない人」がこのスパイラルを後押しするんだよなぁ。「自由」を求める人の中に、正当な自由と単なる我が侭を求める人がいて、我が侭だけの人と、我が侭な人の意見ばかり見えてしまう人のせいで正当な自由まで要求できなくなってしまうような構図。

そうそう。最近まで知らなかったのですが、東浩紀さんの「動物化」というキーワードは、この「考えることができない人」のことを言っているらしいですね。

週刊!木村剛: モノ書きの老婆心:「匿名性」を護るために
に感銘を受けて独り言。当然この話題だけではなく、Winny の件や人質事件や、その辺のネット上にいる大きなお子様との対話なども踏まえて。あ、リンク先に関する言及は実名/顕名/匿名の得失にも追記してます。

(追記)
まだ見てくださる方が当分いらっしゃりそうなので、ここに追記します。
スパイラルという所だけに反応してですが、こういった構造について、
圏外からのひとこと(2004-05-17):いまお互いの信用という面で負のスパイラルに落ちっていると思うよ日本
という言葉が。注:言葉を発したのは名無しさんです。
是非、リンク先まで見に行ってみてください。

あと、「自由を履き違える」に付いても付記します。
このような文脈での「自由」は、「不条理な規制/強制からの脱却」を意味しています。「自由」を「何をしてもいい」という意味に捉える方がいらっしゃいますが、それが誤りということです。「言論の自由」は何を言ってもよい、という意味ではないでしょう。「言論の規制は許されない」という意味でしょう。同義のようにみえますが、ニュアンスの違いが解りますかねぇ?「自己責任」の俺様定義でも触れたけど、自分を許したり、他人を糾弾するために用いる言葉じゃないと思う(思いたい)わけです。

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2004.05.08

実名/顕名/匿名の得失

批判/中傷関連のテーマが書きかけのままですが、津村さんの記事を木村剛さんが紹介する形でネタふりされたのをきっかけに、元々書きたかった表題の整理をしてみようと思います。整理といっても思いつくまま特徴を書きつらねているだけですが_o_。そういう意味でほとんどの場合に様々なソースにあたって記事を書かれるお二方には感服します。

(追記)Books by 麻弥~ News Collector ~Old 00000028~で紹介いただいている麻弥さんは「筆名」という用語を使われています。私はこの記事で「顕名」と表記していますが、この用語は「匿名でないもの」位の意味であり、本当は実名も含まれるので、筆名と記すべきだったかな、と思っております_o_。

実名(捨てることのできないアイデンティティ)

  • リアルでの評価に直結する
  • リアルでの評価がネットにフィードバックする(集客力などの面で)
  • 会話相手に安心感を与える
  • 情報の出力に規制がかかってしまう
  • 意見の表明に自制がかかってしまう
  • 追い込まれると黙るか壊れる(キレる)傾向 → いずれにせよあとに響く(ほんとは謝ればいいだけだけど)
  • 様々なレッテル被害を受ける
  • 自分が実名であるが故、匿名者を特にレッテル視する傾向
  • 品性を過剰に問われる
  • (追加)細かい部分まで主張し辛くなる(余計な揚げ足取りを避ける心情)
  • (追加)恥をかくことへの恐れからの労力負担(慎重にならざるをえない傾向)

顕名(いわゆる固定ハンドルと思ってください)

  • ネット上だけでの知名度で、自己顕示欲を満たすことができる
  • 大抵のことは言うことができる
  • 人格を詐称することができる
  • いざという時にリアルのアイデンティティに結びつけることができる
    • ネットのアイデンティティが評価されていたら、それをうまく結びつけることで特定のリアルの交渉ごとを有利にすることができる
    • ネットのアイデンティティそのものに対してオファーが来ることがある
  • いざという時に捨てることができる
    (そのネットでのアイデンティティが捨ててよいアイデンティティであれば)
  • 得体の知れない人というレッテル被害を受ける

匿名(その意見だけ)

とりあえずこんなもんで。書き足したり配置など調整するかもしれませんです(特に匿名の特徴は全然書き足りてないです_o_)。

ま、つまりは顕名というのは最もお得、言い替えれば卑怯な手段かもしれませんね^^;。どの手段にしても実際に得するかどうかは個人の資質次第なんですけどね。生産的なことを何もするつもりがない人にとっては匿名が最もお得でしょう。逆に言うと、実名でネット活動を行おうという場合は、大抵は自分が信じる生産的な何かをやろうとしています。確信犯(※)となる場合もありますが:p
※受け入れられるかどうかはわからないという意味ですね。
根本的には、実名の特徴に挙げたとおり、リアルでの影響力を上げたい場合か、リアルでの影響力を持ち込みたい場合、ということになり、それをやっかむ人がいて、そういう人が実名という行為自体を理由に攻撃するケースも多く、そしてそれは中傷と判断されることも多かったりするんですが。そういうのは感性の違いなんだからいぃじゃなぁ~ぃ?(by 波田陽区…ではないな。残念っ!)とか思う。


あ、自分の立場ですが、私は本名同然です。一応本名は木下信といいます。当初はちょっとした引っかかりがあって(実は今もあるのですが^^;)、ここから自身の web ページへ辿れないようにしたりしていたのですが、そろそろ自ドメイン上にサーバ引っ越しも考えていたりするので、いずれにせよリアルのアイデンティティに結びつくようになります。いくつかの関係者の方にすみませんしないといけない(と思っているだけで実行できていない)ことがあるのですが…^^;
(追記)本名はまぁ、お二方に対する敬意みたいなものとして書きましたが、私個人の感性としては、名を明かすかどうかはどうでもいいと思っています。実名の所に書いた「匿名者を特にレッテル視」することを嫌う立場です。もちろんいわゆる実名派の方が匿名について述べる時、常にレッテル視しているとは思っていないのですが、「匿名」と一般化して語る時に得てして「レッテル視」と読まれてしまうことを危惧はします。もっと言うと、こちらが実名でなければ主張を丸ごと無視するような人は願い下げですので、実名は知りたければ調べれば解る、程度にしか出さないと思います。


さて、今さらこういった整理をしようと思ったきっかけは、実は以前津村さんの記事の中に興味深いことが書かれていたからでして。あまり具体的事象と結びつけられたくないとのことでしたので、場所も特定せず引用ではなく要約にて。

実名と匿名の議論においては、一見互いが誠実に対応していたように見えて、実名側が非を認めざるを得ない場面で突如「匿名が相手だから」という理由を後付けして議論を打ち切ろうとする=実名側が不誠実な対応をすることがある。

という話です。つまり、実名側の方に逃げ道を与えてしまっているから匿名は損である、と。大変興味深いですね。ここで実名側は弱者と考えることができます。そして、この構図は弱者に与えられる権利の濫用に他ならないと思います。

このようなことが実際に起こった場合、ほとんどの場合はそれを見た人は「(実名側が)議論に負けて逃げた」という印象を持つと思うので、現実には実名に有利なことはほとんどないわけですが、そんなことはしていなくても、あとに述べるように中傷やずれた論点を無視しただけで「議論に負けて逃げた」と思ってしまう人も世の中には結構な数いてしまうのが厄介ですね。批判と中傷の区別、あるいは「論点」を見定めることができない人。私は今はそういうのは「勝手に思っておいて」で済ませますけど。

他にも断片的に気になっていることはたくさんあるのですが、まだ整理はつけていないです。整理とは分析という意味であり、自分のスタンスは既にある程度明確ですが。

さて、木村さんの記事やそのトラックバック、および津村さんの記事群を読み返した中でいくつか気になる箇所を挙げてみます。

以前、とあるメーリングリストで、実名で発言している人の本業での仕事ぶりや人間関係などの誹謗中傷を、匿名で発言し続けた人がいました。そんなとき、実名発言している人がどんなに理路整然とやりとりしても、絶対に負ける。

注:実際の引用元はハンドルネームと匿名。ネットではどちらという所だそうです。

「負ける」ということにはならないと思うんですよね。私は論点と無関係な所をつつかれても議論には影響しないと考える人です。どちらかというとそういうことを言い出した人たちのダメさ加減が浮き彫りになる。ただ、匿名の場合、「言い出した人」を人とみなすことが困難であるケースがあるわけですが、言われた「実名の人」の評価や議論の有利不利に影響があるわけではない。本来は…。

問題はこれを「負ける」と思ってしまう、あるいはこれで「勝った」と思ってしまう人々にあるように思うわけです。大きな声(※)しか見ない人々。

※嘘でもインパクトのある内容、とかのことです。マスメディアが得意ですね:p。マスメディアに流されるタイプの人々、と言い変えることもできるわけだ。

問題だけれど解消はし得ない問題ですけどね。せめて啓蒙はしていきたいものです。

匿名性というセーフティネットの中で許される言論の自由とは如何なるものであるべきなのか、あるいは、匿名の方はコミュニティを壊す権利を持っているのか

他の方も突っ込まれていますが、「権利」はないですね。あるいはその行為も権利であるとするなら、「権利」と「権利の侵害」は表裏一体ってことで、コミュニティを継続する権利を侵害する権利は認められない、と。

権利と自由の違いって何だっけ?と思ったけど、あんまり明確に違いを定義している所が見つからない…。こんな感じですかねぇ。

両者の違いは何かと聞かれたら、どう答えるだろうか。なにか気づくことはないだろうか。そう、自由の方が権利より人間の内側というか身近というか根源的というか、とにかく空気のように必要なものだ。何かを考えることを強制されたり、何かを表現することを制限されたり、神や仏を信じることを強いられるはたまらない。こんな当たり前のことが「自由」として憲法に保障されているのだ。

私的には「自由は与えられなくとも存在するもの、権利は他者に認められて存在するもの」といったニュアンスを感じます。ただし、自由は当たり前に存在しても、その結果責任は付きまとう、と。

権利と自由関連でもう一つ。

「勿論、自分の下した判断に対する責任は自分で取る。しかし、与えた命令を正確に遂行する責任は相手にある。」ですが、この言い方は筋が通りません。自分自身の取る責任には自由が伴っています。ですが、命令された相手は一方的に責任ばかりを負わされています。これは命令者の単なる我が儘です。

ふむふむ、我流「自己責任の原則」はこれですな^^;。話が与太ってきたけど、部下に自由を与える責任者って大変ねぇ^^;;。でも、それこそが組織をうまく回らせる秘結だったりするからこれまた大変。

ちょっと戻して、「自由に付いてくる責任」を放棄する手段として匿名が利用されるのは確かなわけですが、匿名の公益を再度考えてみると、「発言に責任を持つほど思考/言語を駆使する余裕/能力が無いが、感じたことを表明したい」人は多数存在します。そういう人たちに権利を与えた。そしてそういう「一部の強者以外の意見」を見ることができるようになった。告発可能性/現場の声といった話ももちろんありますが、これは今回の問題とは関連しないので置いておいて。「思考/言語を駆使する余裕/能力が無い」人はそれができる人と比較すれば「弱者」ですね。さぁ、またでてきましたね。「弱者に与えられる権利の濫用」が。このテーマ、muse-A-muse:儀礼的無関心と「ウザイ」の幼稚性の記事で見て注目していたのですが、その後、圏外からのひとこと(2004-04-21):弱者の特権を権力として濫用する者として記されているのを見て(議論沸騰してますね^^;)、好んでこの表現を使ってます_o_。私的定義としては「弱者への同情や救済を悪用する行為」ですかね。

実名=弱者
実名でものを言えるほど議論に達者でない人=弱者
匿名=強者

ですか。自分は議論も文章も達者でない人で、弱者と思っていますが、特権を過剰に使いたいとは思わないし、自分以上に弱者に相当する人もいっぱいいるだろうと思っています。

いやぁ、書いてるうちに(いつものように-_-)論旨がぐちゃぐちゃになってきた^^;。この辺にしとこ…。

ところで、人に何かを伝えたいという場合、伝わりやすさの尺度の一つとして自身のプライバシーをどれだけだしているか?というのは絶対的に存在します。津村さんがテーマにされているのはそのあたりですかね。その話題はまた別途触れたいところです。

(追記)

自分の主張を全て知ってないと反論すべきではない、ということになっているらしい。

あちらのコメントにも書いたんですが(向こうでは向こうの場に合わせた書き方にしてた)、トラックバックが来ていたことに気づいたので追記&トラックバックを。
この記事では純粋に匿名/顕名/実名をテーマにしているので言及しませんでしたが、元の木村さんの記事にある上記のような主張は、確かに受け入れがたいです。私は「匿名」をテーマにしたネタ振り記事だと勝手に解釈していたので例示の部分は度外視してましたが、切込隊長さんの言うような「中傷ではなく批判として妥当である」という部分は本来最も重視すべきと思っています。ただ、木村さんが例示された匿名コメントは、それだけから根拠が読み取れない多数の人にとっては中傷にしか見えませんので、木村さんの「事実を踏まえた上で主張してもらいたい」という主張を一方的に非難は出来ないですね。「なぜありもしないネタと思うのですか?」という言い方ができればベストと思いますが、匿名者、且つ他人のコメント欄の発言を相手にそれを述べるのもやりにくい気もしますからねぇ。

さて、私は木村さんの記事を「匿名」をテーマにした記事である、と解釈したので、その観点に立つと、引用した記事中で述べれられていることは、そのテーマから外れた論点である、ともいえます(別途話題にして欲しいとは思いますが)。そうすると、今回の隊長(と書く方がやっぱ楽だな^^;)のツッコミは今回のテーマとしては「無視」され得るツッコミだなぁ、と思うわけです。

ある人が話したいと思っている論点に紐付けて自分の言いたい論点を述べるのは相手に逃げ道を与える結果になりやすい、と思ったりする。
(追記)コメントに書いた件も踏まえてさらに。主張の枝葉とはいえ他人に失礼な行為をしたことを指摘された場合、当然それに責任を持って対応する必要があるでしょうね。ただし私は今回の場合は、元の匿名者は根拠を示さず、しかも木村さん本人に向けずに言っており、その点について批判することは一方的失礼にあたらないと思います。

それはそうと、長文が嫌いそうな(と勝手に思っている)隊長がこの記事を読んでトラックバックしたというのがある意味すごい。読んではいないかもだけど^^;。

(追記)どうも木村さんへのトラックバック記事群の中には、「批判/中傷」を区別なく「自分の意見への反論」とみなして「過剰反応」と述べたりする論調が散見される気がします。批判なのか中傷なのか、言い換えると上述したように「根拠があるのかないのか」は最も重要視しなければならないです。批判と中傷をいっしょくたにしてその対応を語ることはできません。また、批判であるか中傷であるかは発信者が決めることではありません。そして、今回例示された匿名の方による発信は「中傷」でしょう。隊長による補足により「批判」足り得ましたが。

また、木村さんや津村さんは論点において「中傷」を前提にしています。そのことが伝わらなければミスリードになりがちなわけですが。自分の記事もどう読まれてるもんだか^^;。まぁ木村さんの例示された「中傷」が匿名ゆえに起こったことではないことは明らかではありますが、元々津村さんが述べているのは、主張と無関係なはずの「相手が実名であるが故の先入観」「相手が匿名であるが故の先入観」が会話/議論に与える影響についてです。木村さんが本筋からずれた具体例を出してしまった結果なんですかねぇ…。元のテーマには影響しないのに。こうやって「細かい部分まで主張し辛くなる」わけですね。

おっと、今見たら木村さんの新しい記事が。
週刊!木村剛: ご批判はできれば直接私に対してお願いしたい
そうですね。あの例示は木村さんを中傷しつつ、結局は中島さんが好きでやっている行為を他人への中傷でもって非難しているようなもので、それを問題視するのは当然ですね。この点は津村さんもそういった主張をされていましたし。「匿名」であるかはあまり関係が無いですけど^^;。

木村さんの論理展開に関して疑問視する声などもあるようで、今回のテーマと例の結びつけ方などはまさにそういうことになってしまったように思いますが、木村さんは誠実ですね。論理展開云々は「人は間違えるもの」なんだからそんなことはあって当然。指摘を受けてどう対応するかが重要ですね。

「あんな行為はカッコわるい」という世論を再確認する機会として利用なさったのではないか。

あぁ、ツッコマブルな記事に仕立てあげたわけですね。まさしく^^;。「匿名」への強引な結びつけに関しては狙ってるともとれますね~。:) それでも、「自著を読んでから批判」の部分はちょっと穴になってしまったなとは思いますけど、全体としては些細なことですねぇ。

(追記)
週刊!木村剛: モノ書きの老婆心:「匿名性」を護るために
あぁ、これは素晴らしい文章。連続した記事群としてみると論点がずらされたように見えますが、この記事単体はツッコミどころがないです^^;。木村さんの論点は最初からここにあったのかもしれませんが、元の記事からは少々読み取りにくかったですね^^;。
要約すると、「匿名だから中傷したって逃げられるという幻想」に関する話なわけで、これは私も含めて思っている/主張されている方もたくさんいらっしゃったのですが、これほど説得力のある、別の言い方をすると心に響く文章は見たことがないです。きっと話題になりますね。

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2004.04.29

我が侭の増幅、あるいは不感症

批判/批判の受け止め方関連その2です。後でまとめようと思っていますが、インターネットで情報発信する際の勘違い集という形で挙げていっています。まぁたいていのことはインターネットに限定されませんけど。

自分の自由を主張することには躍起であるが、他人の自由なんて知ったこっちゃない、という考え方は世の中にそこそこはびこっているといえるでしょう。我が侭です。我が侭には論理や感性による説得は通用しません。他人の痛みが解らないからですね。それもひとつの感性ではあるわけですけれど。

以前、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という思考実験に少し参加したのですが(その結論は当然の如く出ていないのですが^^;)、「(自分は死にたくないけど)人を殺したってべつにいいでしょ?」「殺したいから殺したんだよ、なぜ悪いんだよっ」みたいな人にどうすれば理解してもらうことができるでしょうか?

「自分は死を恐れていないから」どころではなく、何をどう言っても他人の痛みを実感することができないタイプ-_-。

もちろんここまでの人にはなかなかお目にかかれませんが、インターネットでは現実世界よりもタガがはずれる傾向があるらしく、これに近い無理解も見つけることができたりします。旅の恥はかき捨て、インターネットの恥は書き捨て、ですね。(追記)やべやべ、字、間違えてた^^;。書き捨てないようにしよう。

私的な「大人」の定義のひとつとして、以下のようなものがあります。

小さい頃は他人の痛みを知ることができなかった。
大人になると他人の痛みも知るように、あるいは知らなければならないようになる。

そして今は、大きくなっても他人の痛みを知ることができない大きな子供が増えつつある時代

恥をなんとも思わない人がいます。それはそれで何かを生み出す能力に転化させている方もいらっしゃるし、私から見ればすばらしいことと思ったりもするのですが(私は本質的にはたぶん臆病者^^;)、恥だけでなく他人の痛みまで忘れないようにしたいですね。

インターネットでわりと見かける「他人を中傷していることに(言われてもなお)気づけない人」は、「いじめをする人」と同じ心理な気がします。「からかってるだけだよ/ネタだよ。何でごちゃごちゃ言うんだよ。」と。そういう人に気づかせようとしても、きっとしらけられるだけなのでしょうね。

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2004.04.19

インターネットで「陰口」は叩けない

これから数回に分けて、「批判の受け止め方と批判行為」について書こうと思います。

あらかじめ書いておきます。当記事は感性を否定するものではありませんが中傷を否定するものです。

まず、「批評/批判と中傷の違い」について書いておきます。簡単なことですね。根拠があるかないかです。

人間は陰口が好きなようです。当事者に知らせずに人に関する評価/感想を述べあうという行為は日常的に行われています。ただ、そういう行為全般を陰口とは呼ばないですけどね。通常、陰口とは当人に見えないところで当人の悪口を言う(中傷する)ことであり、当人に聞かれることが後ろめたいと自覚しているような話題を指します。また、特にここでは中傷に該当しない根拠を伴った評価の場合は、当人に見えないところで言っていても陰口とは呼ばないことにします。

私は、陰口は嫌いなので、基本的には当人に聞かれても堂々と対応できるようなことしか言わないように心がけています。例外は、当人の今後の思考/行動に悪影響を及ぼすような内容だが、相談しておく価値のあること、といった場合です。教育をする人の立場を想像すればご理解いただけるかと思います。もちろん中傷のつもりはないのでそれを当人に聞かれても自分は後ろめたくはありません。

さて、web 日記/blog などは「公開日記」であるわけですが、そこで他人を侮辱/中傷するようなことを書いていながら、都合よく「公開」であることの意味を忘れて「個人の日記だから何言ってもいいだろ」といったことを言ってしまう方がいます。

もちろん発言自体は自由です。

でも、内容によっては反論が発生することも必然ですし、何より反論することも自由です。

反論に応えない自由はありますが、反論するなというのはあまりにも周りが見えていない言説です。反論が欲しくないのであればインターネット上に他人への侮辱発言を「公開」してはいけません。「現実世界で普通にしゃべるのと同じくらい気楽に書くんだ」と言っている方、気をつけて下さい。

ネット上に書くということは既に陰口足り得ません。

ここで、反論には、感性/思想の違いから来るものと、事実ではない、あるいはミスリードであるといった指摘があるのですが、前者を不要と考えるのは(多少もったいないこととは思いますが)自由と思います。ここで話題にしているのは後者です。これについては反省すべきでしょう。たまに自分への批判を矮小化するために意図的に混同しようとする人がいます。

日記の中でぼそっと、集団、或いはひどい時は個人を特定できるような言い方で、状況をよく知らないで、或いはメディアの誘導に乗せられて批判を行うということがあります。その行為自体も問題ではありますが、全ての人にそれを駄目だと言うのはあまりに狭量であるとも思います。私もよく調べずに批判的情報発信を行う事もあるでしょうし、説明できない感情の表出も重要な情報だと思っていますから。ただ、批判された側あるいは客観的に見ている第三者が、その批判は間違いである、と指摘/反論することは当然のごとくあり得ます。この反論を指して「噛みつかれた」などと侮辱する人がいます。この勘違いはやめたほうがよいです。たとえ相手に通知などをしていなかったとしても、噛みついたのは自分です。また、批判が発生しないことがあるのは、その言説が正しいからとは限りません。みんな、すべての誤りを指摘して回るほど暇じゃないのです。
(追記)「同意の旨の意見はあった」という多数決論理を持ちだす人もいますが、たまたま自分と同様に専門家で無かったか、単に自分と馴れ合いたい人かもしれませんよ、と。和を保つことと馴れ合うことは違います。これはいつしか別記事にて。

この記事では個人や集団は特定しません。行為を特定しています。思い当たる人でこの主張に間違いが見当たらないと思われたなら、自戒しましょう。この記事の内容が誤りであると思ったなら、どうぞご指摘ください。

なぁんていっても、ここで書いたようなことにもろに該当する人ほど自己正当化が激しかったりするので書いてもなかなか効果がないわけですが。ならばなぜこういう記事を書くかというと、良識のある方が道を踏み外さないよう再認識してくださるという効果はあるからです。本当は自分に向けて/自己の思想の整理という意味が一番強いというのはいつも書いている通りなのですが、教条度を上げて書いてみる実験です^^;。

今「blog で簡単にホームページを」という類いのキャッチコピーに乗せられて参入してくる方は、どれくらいが「全世界に公開」の意味を解っているんでしょうね。それを知らなかった/考えられなかったことは罪では無いと思います。批判を浴びた時に気付けるのであれば。ここで問題点として、騒ぎになるほどに指摘/批判に混じって中傷が現れるのも世の常なわけですが、全てを中傷とみなす自己中心的思考はやめましょう。

ただ、人は本質的に陰口が好き(※1)なわけで、web で陰口を言える仕組み(※2)というのを考えたりしています^^;。私は使いたくないですけど。

※1:私だって、陰口が嫌いと言うのは理性で抑えているのであって、いつ無意識に陰口に該当する行為をしてしまうか解ったものじゃありません。そういうのを正してくれるコミュニティなら属したいですね~。

※2:2ch がそういう使われ方をする場と勘違いしている人が多いですが、2ch でも中傷は嫌われます(ここではネタと中傷の区別というまた難しい問題があったりしますが^^;)。ただ「根拠をうまく説明できないがこう感じる」といった正当かもしれない意見を述べるのに適しているということです。

参考:
思い込み(=レッテル)と批判と紛争

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そしてどんな立場の人間も上を羨み、下を嘲る

ネタ元を失念しましたが_o_、おそらく 2ch のどこかで見た言葉。

上を目指し、下を微笑ましく思っておけばよいではないですか。

などと言ってもそうでないのが人間なんでしょうか…。

私はというとそういう人たちも自由だと思っているので、
そう思っていること自体には問題を感じないわけですが、
非努力家のための世の中になってきていることは
ひしひしと感じていたりします。

思うことは自由ですが、努力を貶さないようにしましょう。
筋が違うならそれを教えてあげればいい。

言われた側は、批判と中傷の違いを区別できるようにがんばりましょう。
言った側は、それが的外れである可能性を念頭に置いておきましょう。

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2004.04.15

自己責任は自分に対して課すもの

当たり前だと思っていたが…。

助けようとするのは当然。
無知を諭し、事実や知識を伝えようとするのは当然。

知った上でどう行動するのかは自己の判断であり、その結果の責は自身が負う。
無知に対して自己責任を問えることはほとんどない。
また、自己責任は全てではない。周りの人間が、あるいは拡大解釈すれば社会が助けることができなかったことにも責任は少なからずある。自己責任の原則は自分自身の心構えとして用いるものである。

少なくとも無知を知らせる努力をしていない、或いはその人の行動で相応の迷惑を被っていない人が他人を責める材料にはならない。

(追記)
そろそろ書き足しとこっと^^;。
自己の責任を棚に上げて他人を責めたり馬鹿にしたりする人が、そのことを批判されるのは当たり前。
そもそも責任論は空しいばかりってことさね。
原因追求は良いこと。でもその目的は責任のありどころを見つけてそこを責めることではないでしょう。
責めるという手段は選択肢の一つとしてはあるけれどね。

(追記)
KANWAKYUDAI::Blog: 「自己責任」
世の中で言われている「自己責任」の意味。
ちなみに当記事は当然ながら我流解釈です。
"at your own risk" には「責任転嫁」というニュアンスは感じないなぁ。
「無責任」ではあるかもしれないけれど。
要するに、「自分が責任を取れ」というよりは、「他人のせいにするなよ」という考え方でしょ。

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2004.04.10

思い込み(=レッテル)と批判と紛争

以前 MyClip もした記事「ブログとネットの心理学」に関して。

 公開で何かを記すことは自己説得の効果を持つ。
 この意見には異論もあるかもしれないな、と考えて記したことでも、どこからも異論がないままに過ごされると「俺の考えは正しかったんだ」と思い込むようになることがある。単に無視されている結果であったとしても、無視を賛同なのだと解釈したりする。加えて自分はこういう意見を持つパーソナリティなのだと自分にレッテルを貼ることにもつながる。独り 集団成極化現象みたいなもん。
:
 知識の差が一と百あったとすれば、一のほうは百が何を言っているのかさっぱりわからないだろうし、百のほうは一に何を伝えるにしても背景の知識まで含めて伝えようとするとものすごい手間と徒労がかかるのでどうにもそこまでかまっていられなかったりする。
 触れてもつながれない。違う人とはつながりにくい。
 いきおいブログにおいても似たものが集まり階層・知識のタコツボ化&集団成極化現象が生じる。

そして、お互いにレッテルを貼り合うわけですね~。
批判が無かったからといって、自分の意見が正しいと思いこんではいけません。
また、批判を無視しても私の勝手でしょ、と思いこんではいけません。

まぁ、「いけません」って別に禁止という意味ではなく、するのは自由ですが一般的にカッコわるいだろうってだけですけどね。自分に向けた言葉ですので。価値観の問題と言われればそうでしょうね。他人に迷惑さえかけていなければ。
(追記)
意見が多数に脹れ上がった場合、全ての意見に答える必要はありません。しかしそれを許すのは第三者であって、本人が許してはいけないでしょう。本人は「答えるべきだけれど答えられず申し訳無い」という心意気を忘れてはいけないと思います。それこそが発言に対する責任であるとも。そうしないと、思い込みは進行するばかりです。


で、このあたりの価値観(認識のバックグラウンド)を共にするもの同士がコミュニティ化していったりするわけですが、得てして相手のコミュニティとの紛争の元を発生させるのが、「批判を無視しても私の勝手でしょ」と考える側なのですね。なぜなら紛争の元になっていることを「気付けない」上、指摘を「徹底的に無視」あるいは「ウザイ」という便利な言葉で一刀両断しますから。もちろん百を知る側も一の側を過度に馬鹿にしてはいけないと思います。可能であれば無知を知らせてあげたいところ。でもそう思っていても、「ウザイ」と思われるのならしないですよね。

注意:一/百といった関係はテーマごとにいくらでも逆転しますし変動します。その時自分がどちらがわにいるかを意識する必要があります。そして、「自分は百である」と思いこんではいけません。

「無知」が罪とみなされるか否かには境界線があり、あまりに差があり過ぎるととても教え切れない、それくらいは勉強しておけ、ということになります。この境界線が各自によって異なるのがまた問題で、さらにはその無知に対する指摘方法について、「どのようにするのが親切であるか」の基準も、受け手/伝え手それぞれで異なってしまっている。この両者が紛争無しに理解し合える確率は相当低いといってよいでしょう。

前の記事で予告した「批判への対応」に関するテーマを書く前にひとまずここまでで公開。

なお、私はコンピュータ技術に関しては一応それでご飯を食べているのでプロということになりますが、それ以外に特に「専門」はありません。感覚で書いていますし、誤りもあるでしょう。誤りをご指摘いただけると嬉しいし、それが blog をやっている目的でもありますが、指摘が無かったからといって正しいとは限らない、というのは意識しております。

(追記)
当記事で出した「ウザイ」ですが、これはそう感じた人にとって「ノイズ」であったということです。で、その件に関しては集団コミュニケーションにおけるノイズの定義にて記事を書いています。
当事者からすれば的外れな「ウザイ」という感想こそ「ウザイ」わけです。的を外していないと思うのであれば説明責任を果たすか、それが面倒なら 2ch に行くのが賢明ですね~。
参考:2ch の価値に関するコメント
「2ch の価値」について記事を書こうかな…。

あ、今思いついたこと。
「ウザイ」という感想はいつもメタな視点で語られる
内容そのものは見ないで言う人が多いですね。
あぁ…メタを分析する行為は有用なのになぁ…。

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2004.04.06

ポジティブになる方法…そんなこと書けるのか…?

以前予告したという事で^^;、現在の自分に至る経緯みたいなものを書いてみようと思います。予告時のテーマは「ポジティブ/ネガティブに悩む人」等でしたが、元々ネガティブな思考が無かったので、ポジティブ/ネガティブに悩む方にとって参考になるかどうかは怪しいですが-_-。

元々ネガティブでは無かったとはいえ、私は 7,8年前くらいまでは積極的なほうではありませんでした。特に自分を高めるといった事にはあんまり興味を持っていませんでした。なので他の精力的な方と比較してかなり出遅れたと思っています。

なるようになるでしょ、今のままで十分稼いで食べていけるし、といった思考だったのでしょう。コンピュータをいじる事に関しては長かったので、他の方がなかなか出来ない様を見て「まだ大丈夫」と思いこんでいたり。
それでも後輩に抜かれるようなことは無いようにという最低限の意地は持っていましたが。

変わるきっかけはインターネットを始めたことです。1997年終盤くらい。当時人気がでてきて、実務に導入されはじめていた Java の仕事をやるという事で会社で導入して間もないインターネットを使って調べ物を始めたことでした。そこで何を得たか?

想像に難くないでしょうけれど、すごい人たちがいっぱいいるという事を知ったのです。井の外をのぞき見したわけです。「自分以外はバカ」なんてとんでもありません。そこで行われていたのは自分の理解のはるかに上を行く議論でした。そうするとさすがに危機感を覚えます。「この人たちとしゃべるには知識/論理のバックグラウンドが無さ過ぎる」と。相手が普通に語る事を理解するのに精一杯で、自分の意見を出すのが恥ずかしくなるという。でも、実際には得てして本当にすごい人ほど権威にしがみつかず、会話しやすい方が多いし、萎縮してほしくないと思っている方がほとんどです。

私は、この人たちと議論がしてみたい、と思いました。さて、その「やりたいこと」を実現するためにどうすればいいでしょう?ここで私は一つの選択をしました。選択といってもザイオンかトリニティーか?といった難解な選択ではありません。おそらく自明といえるほど簡単な選択です。やりたい事を実現するためには何らかの能力または知識が必要になるでしょう。そこで取り得る選択肢は、

能力を獲得する苦労をするか、能力を獲得せずに苦労をするか?

です。もちろん目的を達成するのに必要なものが、「"この"能力しかあり得ない」ということはないです。正面からではなく横から攻めることができるかもしれません。ただ私はどちらかというと正面から行く道を選んだんですね。

で、それなりに勉強して、まずは初心者質問に答えるようにしました。それによって、文章力と現状の Java への理解度が足りているか試しました。後は自分の理解できるレベルの話題から、議論にも参加しだしました。自分がある程度主張に確信を持っているものから始めて、徐々に答えの無いような話題にも参加するように。

そして、コミュニティに属していると必然的に発生するコミュニティ論についても考えるようになり、現在は如何にも答えの出る事のない「人」「感情」に関する話題にまで首を突っ込んでたまに苦しむわけです^^;。

なんでこんなことするんでしょうね…?おそらくコミュニティについて観察するようになった頃から、自分の人間性を高めることが自分にとって絶対的に得で、自分が傷つかないもっともよい方法が、人徳者になることだ、と思うようになったんだと思います。今の私的哲学は、客観視によって何が必要かが分かり、自分を得な方向へ誘導することができる、といったところでしょうか。あと、自分以外の99%の人間には尊敬に値するものがある、ということです(ここの含みは伝わるだろうか^^;)。

えーっと、これって今の自分になる経緯は語っていても、ポジティブになる方法は全然語れていませんな…-_-。私のきっかけは危機感だったわけですが、ネガティブに悩む方は、生き方に危機を感じた時に、もうダメだ、と思ってしまう…んですかね…?やっぱりこちらに書いたように、「自分の能力の可能性に一生期待する」のがよいのではないだろうか…。とりあえず私はかなり出遅れたと思っています。皆さんが出遅れているとは思えません。私はポジティブなだけで、能力はまだまだ不足していますし、自分のある種の能力の限界も概ね見えていますが、まだ伸ばせる能力もあると思っています。んで、ある程度能力が付いてきたら絶対に自信も生まれますよ(※)。自信を確認したい/或いは自信がなくなるような事があった時には、ちょっとだけ井戸の底を覗き見すればいいんです:p。ただ、そこ(底)を見て安心するのではなく、自分はそこに行きたいのか?を自問自答しないと、抜け出せなくなるかもですが^^;。

※ってか、能力が付く事が目的化しちゃってたり^^;。

さて、他の方は、すごい能力を持った人を見た時にどう感じるものなんでしょう…?多くは、ふーん、で終わりでしょうか…?お聞きしたいものです。

参考:
誰かと応対する時、いつでも「他人同士の応対を観察する」ような第三者視点を持とう
言いたいこと言ってて人が動いてくれるなら、あなたは人徳者。 でも言いたいこと言えずに気を使いまくってても望みは叶わない
危機は変化へのきっかけ、希望は変化への後押し
ってか、自分の考えはここに集約されてるか…。

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2004.04.02

Web では共感を探しているのであってコミュニケーションを探しているのではない

書く側も読む側もそう。

自分の考えを補強/否定してくれる資料探し。でも、書籍などの資料漁りとは違って、そのような考え方をする人探し。
blog を bookmark する/RSS reader で subscribe するといった行為は特にそういうものだと捉えている。その人との直接のコミュニケーションは、発生するかもしれないが副次的なもの。著者側の視点に立つと、アクセスがあること自体が共感であると思いこみたいわけである。その先にある対話をさらに望むことはもちろんあるが、その場合、おそらくそこそこ多くの人が望まない批判勢力との論争とも対峙しなければならない(私はそれも望むけど^^;※)。だから、限定的な対話を望む人が多数いる。(用法を誤っているので使いたくないが、今や状況を指すだけなら最も通じやすい用語となってしまった)儀礼的無関心を望む人。

…という考え方もある&私は積極的にそうしている。そして、それは実は「Web を通して人と繋がる」と考える人の根底にも存在する可能性が高いのではないか。


なぁんて、また煽りタイトルで超べたべたなメタ論を書いてみたり^^;。「web 全て」いっしょくたに語るつもりはないです、もちろん_o_。blog になって、対話的コミュニケーションの可能性がどんどん主張されていくけど、本質的にはテレビなどと同様であり、そしてテレビ/書籍などより人を身近に感じることができるため、共感しやすい、ということです。「身近」はフィードバックのしやすさから来るものであり、blog は今まで掲示板など別の場所でなされていた(それでも他のメディアより楽だった)フィードバックをより直接的にしたということで、実際にフィードバックするかとは無関係に共感のしやすさを増幅したけれど、やっぱりそこから始まる対話的コミュニケーションって副次的効果だなぁ、と。要するに、過度に閲覧者にコメントなどを望んでも、たぶんなかなかそうはならないだろう、と。
タイトルは「常に/多くの人は~探しているのではない」とするほうが正確ですが、それってあまりにも当たり前過ぎて、自分の言いたいことを伝えるのに足りないと思ったわけです。すみません。一応、格言風にしたかったというのもあり^^;。

あと、「blog はコミュニケーションツールだ」なんて言説あるんですか?という正しい認識の人にとっては、やはりあたり前な話と思います。

※中傷とは対峙したくないですね。批判は歓迎~。

注意:もちろん"コミュニケーション"は bookmark した時点で成り立つ、下手したら見た時点で成り立つ、とする考え方もあり、その観点で言えば上記も「コミュニケーションを探している」と言えるし、そのことを指して言っている人もいると思う。この文章の文脈においてはコミュニケーション=著者と読者の直接の対話、としている。

…読み返さずに公開っ^^;;。
(で、とりあえずの追記)コミュニケーションを求めることを否定する類いの記事ではない(つもり)です。そこんとこを強調しときました^^;。ってか、木村剛さん関係のオフ会、時間があれば行きたかったし^^;。

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2004.03.29

いまや自分のサイトの全てを見ている人なんていない

ほとんどの人の blog がそうである、と思いますね。本人以外に全記事全コメントを追っている人がいる blog っていくつくらいあるでしょうか…。

それは当たり前、で終わるところなのですが、何というか、ごく主観的な話ではありますが、私の場合、以前はそうでもなく、ある人の Web サイトを隅から隅まで見るということも結構していました。知人あるいは特に尊敬する人。いまでもいくつかはあるので、それらの方のサイトは当人以外にすべてを読んでいる人が一人はいる事になりますが^^;。

要するにチェックしたい対象が増えすぎて、とても「人」を追いかけて全部読むということがしきれないわけですね^^;。

いわゆる巡回対象はあくまで「人」単位なのですが、内容のチェックに関してはかなり好感を持っている人のサイトであっても拾い読みになってしまっています-_-。そういう方、結構いらっしゃったりしませんか?^^;

沢山の人の主張などを見れるようになって、特定の人に着目する度合が減少してしまう危機を感じてしまったり。

私が特別に忙しいだけで、そうでも無いという方ももちろんいらっしゃるとは思いますが…。
でも、新たに見つけた(興味/尊敬の対象となる)方がいても、その方が 3,4年も blog を書き続けていたら、遡って読むという人は何人いるか…?
これ、実は blog のアーカイブの形式次第でいくらか改善できそうな気がしないでもないですが。別の言い方をすれば著者が読者に読ませやすくする努力次第、ですか…。

私のページを全部見ている方はいないような気がします^^;。いたら、教えて^^;
てなわけで、私は、やっぱり記事の大量生産はやめます。個々の記事の個性を重視するやりかたで行きます。(追記)どうも、ここに違和感を感じる方がいそうなので改めます。どっちかというと、現在は閲覧者的視点の方が私的に重要です。

もちろん、ニュース系/日記系のように、過去を遡るより今を見続けてもらえばよいというスタンスの方には全く当てはまりません。私は古い記事も大事にしたいということで、今回のはあくまで自己吐露系です_o_。

だいたい、自分の文章って多い且つ読みにくいので読む気にさせないと思われ-_-。すっきり書けるようになりたいものです…。

で、なんとか格言に持っていきたいんですが^^;、こんな感じ?

Web サイトが自分の集大成だったとしても、伝わるのは一部。

(追記)
おいらが今、開始から全部見れているサイト。開始時から見ているからこそ全部見れているわけですが^^;。
さむうお氏 http://gogo.tea-nifty.com/
白桃氏 http://peach.tea-nifty.com/

お友達サイトなわけですが、最近、ネタが洗練されててマジお薦めできるので、再度ご紹介~。

(追記)
タイトル、変えました^^;;

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自省無しに成長はあり得ない

自分の行為/主張の誤りの可能性が全く頭に浮かばない人がいる。
逆に、とんでもない主張をぶつけられても、なぜそう受け取られたのか、自分がどう変わればうまく対応できるのか、といったことを考えながら対応できる人がいる。

よく吟味しないで発した言葉に対し、「言論の自由」を持ち出して、訂正しない人がいる。

自分のその言葉が出るに至った理由を説明できないのだ。

人間は感情の生き物なので、自分で自分の行動の理由を説明できないことはたくさんある。若いほどたくさんある。
でも、説明を試みることすらできないのは一般に「我が侭」と呼ばれる。言い替えれば「子供」とも。

「大人」になりたいですか?

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2004.03.27

誠実とは対等に向き合うこと

親切丁寧であることではありません。
辞書的には、「正直であること」であり、自分の気持ちに偽りない言葉は誠実、と言えるわけですが、私は、相手の気持ちを無視していたり、相手にレッテルを貼り、そのレッテルに対して発した言葉が「誠実」とは思えません。
自分の正直な気持ちを「自分はこう考える」と伝えることは誠実です。
また、相手に何か指摘する際に、相手の様々な可能性を考えて発言することは誠実です。

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2004.03.22

ポジティブシンキングに関する誤解

移転しました。 philosophical: ポジティブシンキングに関する誤解

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つまり/要するにをうまく使おう

私は話の中に「要するに」「つまり」「結局」がとにかく多い。10分のうちに10回以上使っている部分が何箇所もあった。ほとんどは、なくても意味が通じる。これは今後、意識して直した方がよさそうと思った。歩き回ったり、身体を傾けると見栄えがよくないことも知る。
著者が現代人の濫用として槍玉に挙げる言葉に、「やはり」「要するに」「とりあえず」「逆に」「ある意味」「基本的に」がある。これらの言葉が本来の意味を持たずに話されることが多いというのだ。正直、耳が痛い。私も該当者だから。なくても、意味が通るのに使ってしまうことが多い。

私は「つまり」とか「要するに」を多用する人です。でもそれは確信犯です。自分が言語認識力のあるほうではないので、特に会話の場合は、一度耳を通るだけではきちんと頭に入りにくいのです。ですから、幾通りかの表現で何回か言ってもらえるほうが嬉しく、自分が何か言う時もそれを気をつけている、と。本当は、自分の言葉で言い直して確認する(してくれる)ほうが好みですが、相手がそういう行動を取らず、理解度合いが測れない場合は言い直さざるを得ません。ちなみに私はすぐにそうやって確認しようとするわけですが、それが相手の言葉を遮る結果になったりもして、やはり難しい所ではありますね。

でも、本当は、考えながらしゃべっていたりして、しゃべっている途中でより良い表現を思いついては、「つまり、~」と言ってしまうことも。で、「つまり」以降が元の表現と比べて全然詰まっていない、とか^^;。この場合は「言い換えると」と正しく言わねばですね。

文章ではどうでしょう。文章なら読み返すことができるし、書く側も推敲ができるので、正確に記述できていれば厳密には「つまり/要するに」は全く不要ということになりますね。でも、やっぱりどの表現が最も理解が早いかは聞き手/読み手次第ですし、読み流されることを避ける為というのもあり、「つまり」で複数の表現を用いたりします。

と、こういった感想は「濫用」というキーワードのみに反応した場合なんですが、私、「かなり気がかりな日本語」の方を読みました。中身を見て上記がどういうことを言っているかが解ったんですが、上記した通り、「要するに」と言っていながらその先が要約になっていないじゃないか、というツッコミだったのでした。さらには、上記のような「言い換えると」の意味ですらなく、前後の文の関連がなくても繋ぎとして使われるようなこともあるそうで。そういう状況を指して濫用と書かれていると解り、ちょっとほっとしたり^^;。

要するに、「要するに」の利用回数が問題なわけではないということですね。

私は、「要するに」をうまく使える/使おうと努力する人は、文章を短く表現する能力が鍛えられていると思います。もちろん、それを繰り返すうちに自分にとってのベストの表現方法が定まってゆき、年とともに「要するに」の利用頻度が下がっていくのかな、とは思いますが。

P.S.
させていただく」についてももちろん触れられていました。私の文章で多用している"と"とか"が"には触れられてなかったかな?^^;
「基本的に」も。これは私もうっかり誤用していたことがあったような…^^;。(もちろん本当に"基本的"ならいいんですよ)
ところでこの本自体の感想ですが、正直言って、神経質に過ぎます。「来週」を「翌週」と呼ぶのはどうか?とか。でも外国人に日本語を教えるという著者の立場からすると、現代日本語についてはがゆく思う気持ちはよくわかりました。

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2004.03.18

面倒をみるより自立を促す

人間は心の奥底で教祖様を欲しているように思う。
神様もそうだけど、いわゆるカリスマの元に集まってコミュニティを形成しようとすることもよくある。

私は神様も宗教も大嫌いな「自分で切り開け」君であり、「人を尊敬はすれど傾倒はしない」をモットーにしている。
その理由は、「俺についてこい」系のカリスマは、自立への妨げになると思っているから。
あるいは単に他者に依存していると、いなくなった、或いは裏切られた時に見動き取れなくなるのが嫌なだけかもしれない。

カリスマにはいくつかの種類がある。

直接のコミュニケーション無しでも羨望の目を向けられる何らかの能力者。
特別な技能があるわけではないが大衆の共感に訴えるのが得意なコミュニケーション強者。
救いの手を差し伸べようとする神様タイプ。

この世の中で生きていくためには人心の掌握は大変重要であり、教祖様(カリスマ)になれる人が得だ。
自分もそれは努力目標の一つとしている。

しかし、たとえそうなれるのだとしても、人の面倒を見てやると言ってしまうようなカリスマにはなりたくない。人が自分の力で自分のしたいことを成し遂げられるように、小さなきっかけを与えられる人間になれたらと思う。

自分や自分のアイデアが受け入れられるかを一生試す。
人をコントロールしようとしたらだめだ。

でも、世の中にはコントロールされたがっている人も多い…。

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2004.03.15

人が多ければノイズが増えるが、0の意見が1にもなる

ニュースサイトさんのおかげで「全人類が blog を持つ日」が結構沢山の方に読まれつつあります。
時期的には数週間前の記事だったんですが、そういうものでも取り上げていただけるということが解り、嬉しいです。

新しい主張(単により前にその主張があったかもしれないことを知らないだけですが)であったとしても、それを見て他の方に広めてくれる誰かがいないとしょうがないんだなぁ、というのを実感した出来事でもあります。

さて、とにかく見てくださる方が増えると、意見の数も増えて、補足したいことが出てきますね。該当記事自体に関する内容は該当記事中またはトラックバック先のコメントでだいたい記したのですが、関連して少し違う話題をこちらに。"blog" と表記していますがこれは便宜であり、「更新通知機能を持った簡易な自己表現ツール」と捉えていただけたらと思います。
ここに記すネタは、「全人類が blog を持つ日」への反応(リンク元含む)か、或いはそれを見て感じた自分の感覚です。

反応の中で特徴的なのは、以下の点です。

  1. そもそも blog 人口比が全体の何パーセントまで上昇するのか?
  2. 将来増加した blogger の間で blog とは何と認識されるのか?
  3. blog 人口が増加するとノイズばかりになるだけではないか?

1 ですが、せいぜい 10~20% がいいところだろうと思います。ですから、「全人類が」というのは誇張/煽りであり、私の期待でしかありません。でも、全人類の20%もの人が blog を持てば相当にマイナーな意見も参照可能になるでしょうね。

2 が今の私的に最も気がかりな所です。blog という名前である必要はないのですが、有事の際など、当人が貴重な体験をしたことを知らせたい or どこかに報告したいと思った時に、各自が気楽に報告できる場であるということが周知されていて欲しいなぁと思います。
「気楽」さは「自分のノートのようなもの」という日記的側面により、他のツールより容易に周知ができるのではないかと期待しています。後は、ブラウザなり携帯なりで記事を投稿する手段を極限まで簡易化できるとよいですね。電話投稿が発明され、普及すればこの認識が結構促進されそう。

さて、そうして blog が誰でもいつでも起稿できる状況になったとすると、次は、(既にそうなりつつありますが)ノイズの増大(3)です。

ノイズは確実に増加しますが、先に記した通り、マイナーで普通の人には絶対書けないようなレポートや意見も確実に増えます。ノイズは新たにノイズを書く人が現れたとしても全体としての比率が増えたに過ぎませんが、貴重な意見(その人にしか言えない意見)は、0 だったのが 1 になるわけですから母集合の拡大は明らかにプラスであると思います。

では、光る情報をどうやって獲得するか?それが更新通知と、その情報を利用した検索、そして母集合の増大によって上昇する「目の数」です。

細かな主張は既に元記事で書きましたけれど、ここに挙げた可能性は更新通知を持つ blog という形態以前では考えられなかったことだと思います。

さて…ここで怪しいのは、いくら「目の数」が増えても、ノイズがそれを圧倒するだけの絶対量に達してしまうと、いくら更新通知機能があっても見つけてもらえない可能性があるということでしょうか…冒頭での感想も関連しそうですね。

ヘタからはじめるイラスト日記
のコメントでも書いたのですが、ボランティア個人ニュースサイトというのは、ますます苦境に立たされる気がします。そろそろ、職業として個人の意見を拾い集めてピックアップする人が現れてもよい気がしますね。もちろん編者の感性に依存することになりますが、それを避けるためにはピックアップサイトが多様化して「多数の目」になればよいわけで。

(追記)
Similarity Search で見つけた
週末起業ブログ!: 潜在意識とブログ
ですが、私は、少なくともいわゆる一般層に対しては、blog をどうやって使おうか/何を書こうか探し求める必要はないだろうなぁ、と思います。もちろんどうビジネスに生かすかを考えることを否定する意見ではないです。:)
「ブログ」飽きたらやめる、何か問題でも?
にも似たような趣旨を書いたかも^^;。いつか、「これを伝えねば」ということができるかもしれませんね~。

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2004.03.08

表現ツールによって個性が強調されたり制限されたりする

Genxx.blog* : 罫線つきノートやBlogは思考の仕方を強制する

こちらの記事を読ませていただいて、ふと(自分のやってる)インターポットの事を思い浮かべてしまった。
インターポットではユーザの土地毎に「看板」というのがあって、それは自身の掲示板といえるものなんですが、その編集画面は「白紙とペン」状態です。

看板

ユーザはこの看板をベースにコミュニケーションするわけですが、時として「この看板だからこそ」と思える表現があって、他のコミュニケーションツールとは全く違った楽しさがあります。
ちょっとサイズが小さいのが難点ではありますが^^;。あ、上記画像は縮小してますよ。

イメージ掲示板みたいなのも世の中にはたくさんあると思うんですが、大抵のものはスタンプなどの「見栄えをよくする替わりに個性を無くす」機能が搭載されていますので、それらもまた思考様式を強制する効果を持っているように思います。

まぁ、インターポットにおいても外部の画像を転写するツールなどをユーザが開発したりしているので、似たような状況になっている面もあるかもしれませんが、もともとの看板への落書き機能がいつまでたっても拡張されない所には、思考/表現方法の制限をかけたくない思いがあるのかもしれないなぁ、とふと思ったりしたのでした。

内容的にトラックバックすべきか迷いますが、こんなものもあるということで~。

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不満を人に伝えるのはよいこと、不満を人にぶつけるのはみっともないこと

はい。いまさらコメントのしようもないかな、と^^;。以前「指摘と怒りをはき違えないように」とも「指導と(以下同文)」とも書いたし。

あと、最近特に気にしているのが「批判」と「指摘」の違い。主張の誤りに対する「事実の指摘」にはトゲがありません。
「批判」には次のようなニュアンスが含まれる場合があります。

ひはん 0 【批判】

(名)スル
(1)物事の可否に検討を加え、評価・判定すること。
「学説―」「―を仰ぐ」
(2)誤っている点やよくない点を指摘し、あげつらうこと
「政府の外交方針を―する」
(3)〔哲〕〔(ドイツ) Kritik〕人間の知識や思想・行為などについて、その意味内容の成立する基礎を把握することにより、その起源・妥当性・限界などを明らかにすること。


なるべく、「事実の指摘」(フォローも含むので「誤りの指摘」と表現していません)に抑えたいところ。でも、タイトルに書いたように、感情に基づく「不満」といえどもそれを当人に伝えるのは良いことと思います。その時、感情をぶつけるのではなく「~ような主張/物言いでは~のような気分になる人も多いのではないですか?」とか少し客観的になって当人に理解してもらおうという態度で挑むことができればよいんだろうなぁ、と。

ただ、単に「誤り」では済まされない無責任な態度、ということで誤り/事実の指摘に留まらない人格批判になることがあります。これは、主張をする人の立場によっては、仕方がないのかなと思います。望んでのこととは限らず、主張の怪しさが人格批判に結びつくような立場になってしまい、そのような批判を受け入れざるを得ないだけの責任が発生してしまう、と。Web 上で主張する、ということは公園談義と比較すれば断然そのような方向なわけで。

そんな訳で、このサイトも始めた当初と比べると文章のニュアンスが変わりつつあります。誰に読まれるかわからなくなるほどに、慎重さ(※)が増しているわけです。そこに気を使うのがやだ、という人が「儀礼的無関心」のターゲットですか:p。

※この「慎重さ」は、母集合が大きくなるほどに何を言う人がいるかわからなくなる、という事に関するものです。この件は別途書こうと思っています。

批判された側としては、誤りを指摘された際はその表現を度外視して誠実な対応ができればと思うわけですが、おまけを付けて返したくなるのが人間、ですか^^;。

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2004.03.04

なぜメタブログは蔑視されるのか

メタメタブログ。

Tokyo Forum: 「メタブログ」の背景を知る
いつもツッコマブルな記事をありがとうございます。:)

メタブログを始めとするメタ議論は、それがもし本来別に語ることがある人が論じだすと、あるいは考え出すと、本来語ることについて考える時間を削ぐ要素であるのは確かです。それが蔑視されたり、メタブログ論に「陥る」といった表現で言われる理由。

meta な視点は重要ですが、それは object をよりよくするための物であるはずです。

メタブログって言葉どおりなら上記の目的、すばわちより良い環境を目指すための議論のことを指すに過ぎないのですが、どうもその言葉自体に似非評論家のイメージを持たれてしまう状況があるようですね…-_-。

例えば、人間が人間について言及するメタな行為を「哲学」といいます。高尚でしょ(笑 だから、メタだからといって否定的になることはないです。

そうですよねぇ。何しろこのサイトは philosophical ですから:p。

「メタブログとは」というメタメタブログ論も混沌としているようですけれど、こちらは一定のコンセサスが得られるはずと思っていたのに、どうも蒸し返されますねぇ。「大上段に構えているようで嫌だ」「べき論になってしまうのがメタ議論だ」と揶揄する方が現れます。「べき論」を始めてしまうと不毛な盛り上がりを見せるので煽りたい向きには最適ではあるのですが。ツッコマブルの典型ですね。(追記)"ツッコマブル"という言葉自体は単に「反響を呼ぶ」程度の意味です、念のため。

メタブログは上記に記した(誤記訂正^^;)上に記した通り、ブログを使っている人/ブログシステムについて論じていることだけを指すはずなのに、その論じ方の一部を見て蔑視する方がいらっしゃいます。実際私も似非評論家は嫌ですが。

これは、ある言葉の定義として、言葉から読み取れる以上の意味を付与しようとした途端に発生する永遠の課題ではあります。

ブログとは?メタブログとは?オープンソースとは?:p

既に「メタブログ」という言葉も元の言葉どおりの意味から離れて多義性を持つに到ったのでしょうね。そうなってくると、互いに異なる前提(言葉の定義)の上で論争を始めることになって、不毛とされる議論に終始するんでしょうね。
もう何も修飾しない「メタブログ」という言葉は安易に使えないのでしょうか…。
或いは逆に、meta という接頭辞自体の持つ曖昧さがもたらす悲劇かも。あるテーマについて話す人自体を指したり前提を指したり表現方法を指したり。
例えばブログ上でブログの使い方を論じることはメタブログですが、ブログ上で論じられるテーマがメタブログであるなぁ、などと論じることもメタブログです。後者は「自己言及」ではないように思うので、そこで「メタブログ」と「自己言及」の違いが出てくるのかな。で、後者は大上段に構えていて嫌だ、と感じ、前者は不毛だなぁ、と感じられてしまう、と。ふむふむ。

と、まぁメタ議論は「べき論であるか?」とかに関して論じる行為はメタメタメタ論になるわけですが、そうやってメタ化していくのも問題解決に当たっては絶対必要なことです。通常、よりメタなレイヤ程答えが単純化(*)されます。そして、一段メタな部分を解決し、それを前提として object について考えるのです。
メタ論が始まるのは、一つには、今話されていることの前提に疑問を感じるから、と言えるかもしれません。だから、「それは前提だ」と思っている人との間で平行線になったりします。

*:(追記)リンク先が不適切でした。こちらの方がいくらかマシかなと思うけど、どうもそもそも「メタなレイヤ程答えが単純化」に関してはまだ自分が言及してなかったかも_o_。


そうすると、次は「では、この表現形態のあるべき姿とはどのようなものだろうか」という思考が働き

こうなってしまう方はいらっしゃるのかもしれませんが、こういう思考が根底にあると忌み嫌われますね。
私はこう考えます。

「この表現形態はこういう特性があるのね。ふむふむ。ならこう使えばより効率的だな。」

自分がそうしようと思うだけなのか、人に強制しようとしているかの違いでしかないと思うんですがどうでしょう?

というわけで、自分が過去に書いた記事へのリンク集的な記事でした。
…それにしてもやっぱり論旨をまとめるのが下手だな…おいら-_-。確かにまだもやもやしてるかも。自己言及論なのかコミュニティ論なのかを明確に分離すればよさそうだな。でも、この駄文も将来自分の意見をより明確に表現するための布石/訓練と思って公開っ^^;。


※"meta" の対義語がわからなかった(元が接頭辞だし)ので、メタな視点から見ての"meta"の付かない対象のことを "object" と表現してみました。適切な用語を知っている方、教えてください_o_。

参考:Kodama's World, Late May 98
哲学、ですねぇ^^;。あ、念のため、直接上記話題に関連するわけではないです_o_。

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2004.03.03

SE/コンサルタントって何だろう

要求分析」の続きです。
今回カテゴリ分けも出来ないくらいまとまりありません^^;。一応続き記事ということで「格言・思想」に入れますけど。
もうね、こんな方向までネタを持っていくと対象読者がどういう人なんだかわけわかめ状態だな^^;;。それでも一応他業種にも通じる話に持っていこうと努力はしてるつもりですが…。

現在は、ある程度の規模の開発になると分析を行った人がプロジェクトが終るまで在籍していることが少ないですが、これは相当に(それこそ日本中探しても何十人もいない程度に)「仕事」ができる人でなければプロジェクトにとって大きなマイナスであると常々思っています。

顧客から得た要求(そしてその目的)の全てに加え、分析者の知識と経験に基づく判断まで含めてすべてドキュメントとしてまとめるのは不可能です。そして、たとえそれが出来たとしてもその膨大なドキュメントを後の担当者に読ませ、理解させている時間は通常ありません。

ソフトウェア開発においても工業生産と同じような分業&作業の単純化が推進されていた時代がありましたが、もうそろそろそのやり方ではだめだと気付かれつつある…はずなんですが。

未だにソフトウェア技術者を交換可能と考えている組織は多いようです。

プログラマ一人という単位で見ても、職人変われば思想も変わるので、いなくなると元のプログラムの意図はなかなか読み取れないでしょうけれど、もっとひどい場合は、最初に顧客と接して要求を聞き出した人が実装フェーズ(実際にプログラムを書く段階)には誰一人残っていないなんていうプロジェクトもあるようです。

顧客との折衝や質問を行う担当者は前担当者の意思と知識を引き継ぐことはできず、顧客に対して既に何度もされた質問をまた行います。前担当者が残したドキュメントは新担当者のドキュメントと重複が多くなり、且つ微妙に異なっているため、それを読まされる設計/実装担当者は混乱するだけでなく、幾度となく繰り返される徒労に飽き飽きしてますますドキュメントを読まなくなります。

規約で縛ろうとしても無理でしょう。

どうすればよいか?

各自の責任感を最大限に引き出せるプロジェクト体制にすることです
要求を聞いた人は顧客に変わって、或いは顧客も引っ張り出して設計のレビューに参加すべきです。
設計を行った人は(実装担当のスキルによっては)ソースレビューまで参加すべきです。
もっともよいのは、分析/設計/実装を同一人物が行うことです:p。
人数が多いプロジェクトであれば、最高の分析技術者を据えて、その人に最後まで面倒を見てもらうことです。
知識/ノウハウの伝達ができればよいですが、それすら難しいし、なにより能力は伝達できないからです

また、プロジェクトメンバー全員の目的がプロジェクトの終了(完成、もっと言えば成功)であることを実感させることです
「ここに書かれた通りにプログラムを書けばいいんだよ」なんて事をやっていたら手抜きされます。あるいは「そこに書かれたこと」の不備に業を煮やしたプログラマは逃げだします。

ところで、世の中には SE なる職種が存在するそうです。System Engineer だそうで。
私の名刺にも System Engineer って書いてるような気もしますが、うちの場合肩書きに何書いてもいいので「育児担当」でもよかったのです。

世の中的には要求分析から設計あたりまでを担当する人、らしいです。
プログラムを組めないのに SE という職種を目指す人がいたりするそうです。不思議なことに。
本質的にプログラミングというのは一人で最初から最後までできる人間がやることです。

まぁ、逆にプログラマーという職種を作業員と勘違いしている上役(或いはプログラマー本人)もいるようですが-_-。

追伸
コンサルタントという職種も SE と同じ怪しさがありますが、こちらはより「提案」や「人(の配備など)」に重きを置いていたりするので、さすがに要求されるセンスが違います。でも、自分でやってみたら大変かもしれないことを平気で提案してしまうなんちゃってコンサルが多いですね。

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2004.02.25

全ての親へ

あやかパパの記憶

すばらすぃ…全部読んでください。

文句の付け所が無いとはまさにこのことって感じでした。
共感し過ぎ^^;。

感動も情景も言葉にするのがまだまだ下手な私ですが、あやかパパさんの思想はまさしく私の目指すもの、という感想です。それでいて私と違ってそれを表現する能力がまた素晴らしい、と。
嫁さんにも是非読んで欲しい^^;。読んでね。

お子さんのいらっしゃらない方にはこちらで書かれていることにどんな感想を持たれるのだろう…?
「100%無垢な愛情」を知らない、或いは忘れてしまった方たちは…。
自分だったらどうだろう。
5年前だと読み流していただろうか…?
いや、少なくとも思想、教育方針には今と同じように共感していたはず。
けれど、今のような感動は感じなかったかもしれない。


お子さんが自分でこの日記を読み、理解できるようになるまで続けばいいですね~。

私はあやかパパさんを(目標とするのではなく)参考にさせていただき、自身の信念に基づき自己の向上と子供の教育に挑みたいと思います。

正直、自分も子供の小さい時からの記録を後で思い出せる形で残したいと思ったけれど、どうするかは考え中^^;

あやかパパの記憶: 子供の創造力とイマジネーション
うちは「ひねもす」やってます。3歳なのでまだちと早い感じではありますが^^;。
あやかパパの記憶: 習い事(お絵かき編)
大きな画用紙、よさそうですね~。
あやかパパの記憶: 集中・継続する力
「読書離れ」などは割と昔から言われていますが、こういうことなんですねぇ。
ゲームに熱中していたならまだいいのかも。
今は積極的な思考が必要なものではなく、流れ込んでくる快楽にばかり熱中する人が増えている気もしますし…。

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2004.02.24

理解できないのでは無い、認めていないだけ

なぜこんな行動を?
私には理解できません。

いいえ違います。
解っているがそれを認めたくないだけ。

ではなぜ認めたくない?
単に自分と違うから。
善悪では無い。

何も受け入れる必要はない。
ただその存在がある事を認めよう。

そして、その人を変えなければならないのか、考えよう。

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2004.02.23

人は皆、察して欲しがり

[続・察]

ある些細なきっかけで、一気に人々が本音を言い始めることがある。

すばらしい洞察。

人が口をつぐむのには理由があります。
おっと私は結構何でも言っちゃうほうかも^^;。
でも、やっぱり希に逢えて言わない/言えない事もあるな。

言えないようなケースでは、なんとか察して欲しいと思っているはずです。
でも、それは「察してほしがり」だから、ということばかりではありません。
言えない雰囲気を周りが醸し出していることも多々あるわけです。

周りの人間としては、人の気持ちを察するよう努力するよりも、
人が本音を言える雰囲気作りに努力すべきと思っています。

元記事ではこう締めくくられています。

こんなに、察することについて感じるのは、
なにより自分が、察してほしいと思っているからなんだろう。
自己の正当化には、ほんと必死なもんである。
アマちゃんだ。

ほんとに素晴らしいですね。共感しきり。:)

何より、自分はどうだろう?と考えることが重要ですね。

自分は察して欲しいと願っているのか?
自分から本音を言いだすことはできないのか?
自分が人に本音を言えなくさせていないか?
そして、他人に察せよと強要していないか?

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2004.02.22

言葉にする、文章にすると心に変化があらわれる

[俺と100冊の成功本 blog.自己啓発.com: 「ついてる」と言ってたら、気持ちに変化が起こった]

「ついてる」と言うのを、最近むりやり口癖にしてます。
そうしたら、気持ちの中に意外な変化がありました。
気持ちが穏やかで豊かな感じになりました。

[雑記: 継続は力なり]

思ってもいないことを言い続けると、自分の中でそれが本当になるときがある。

幼少期の話と同じ。
親の話なんてだいたい脚色だらけだろうが、何度も聞いているとそれが映像化されて、
あたかも自分の記憶のようにしてインプットされることがある。

ほぼ洗脳である。

私は気持ちの持ちようとして、「人生に無駄な経験はない」と考えるよう心がけているんですが、お二方は「言葉にする」ことでそれがより具体的に効果として現れるというあたりに踏み込んでいらっしゃいます。

私は「言霊」はあまり信用しないクチではありますが、心がけも心に閉まっているより何らかの形で表現したほうが、より具体的になり、場合によっては外的な変化を招いたりしそうです。


私は口でいうことはほとんどないんですが、文章とすることが思考の明確化に役立つと考えているため、この日記も書いていますし、ML などでもできるだけ積極的に発言したりしました。もともとは論理面の明確化が目的でしたが、効果はそれだけではない事も実感しています。

ついでに言うと、他の人と比べて言葉にするのが如何に下手であるか、も実感しています^^;。だから頑張ろうとしてるわけですが。

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2004.02.18

「ブログ」飽きたらやめる、何か問題でも?

ちょっとメタブログおば^^;。特定のどこを見てというわけでもないので refer できず_o_。

いわゆるホームページブームに乗って「ホームページ始めました」と言って数週間で更新が止まる、という方はきっと多数いらっしゃったと思います。で、ブログブームでも同じ事になるだけだね、という悲観的なんだか大上段に構えたいだけなのかよくわからない意見がでたりするわけですが(いや純粋に分析としては正しいと思いますが^^;)、ちょっとやってすぐにやめる人をばかにしてはいけませんよね。

ウェブログをどのように使うかによってももちろん変わりますが、ウェブログは当時のブームでいう「ホームページ」と同じく、自分の表現したいことを表現する場です。表現したいことがあれば書き足されていく、一通り言い切ったら(言うことが無くなったら)終了するというのはごく自然なことと思うわけです。

最初からそういうスタンスで、あらかじめ明言している人もいます。

もっと言いましょう。所詮趣味、遊びなんですから、興味があれば始めて、楽しければ続けて、他のものに興味が移ったらやめる、それだけです。それでその人の目的は達成されたんです。
その短期間でもたくさんの人の参考になる、あるいは感動を与える記事を書く人もたくさんいます。

こんなことはすべての人が行っているはずなのに短期間でやめる人たちを非難する(とまではいかなくても馬鹿にしている)ようなものいいをする人がいます。これは何故なんでしょう?

「自分は長く続けているからえらいんだ」ということになるんでしょうか?
いや逆に実際に長くやっている人はそういうことは言わない気がします。

やったことない人のほうが言いそうです。どうせ一時的なブームだろうから自分は手を出さないんだ、ブームに乗らない私は利口だよね、といったところでしょうか?

手を出さない人より手を出した人の方が将来的に人に語れる話題は増えてるんですけど。

つまり、「ブログというものを体験してみる」だけでも目的として充分でしょう。
皆さん飽きるまでやりましょう~。^^/

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2004.02.17

テキストばっかりみていてはダメ

知っている人は多いでしょうけれど。

http://pya.cc/

というサイトがあります。先日この中のイメージランキングを見ていて、久しぶりに夜中に画面を見ながら一人で吹き出してしまったのでした。
# 普通吹き出すまではなかなかいかないですよね?

最近テキスト(プログラム/文章)とばかり付き合ってきた気がするけれど、上記を見た時ほど笑った記憶が無かったので、テキスト漬けな方へ特にお薦めします^^;。

お気に入りは「ケコーン式」「おかずセット」「おもちゃを買わなかった翌日、娘(5才)のささやかな反抗」などなど。
笑える系以外にもなんか感情に訴えかける写真がいっぱいありました。

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2004.02.14

分析とはあらゆる要素を挙げて、整理すること

書いてたネタと被るのがココログスタッフルームに…。

私はソフトウェア開発なんぞをやっていたりしますが、ソフトウェア開発においては、お客さんの要求(お客さんがコンシューマであれば「需要」となりますが、ここでは企業を例として)を分析する作業が必須です。ろくに分析を行わずにお客さんに言われるがままに機能や内部処理を決定していくと、必ず不整合が発生し、それを取り繕う作業に開発期間の半分以上を費やされることになります。

お客さんが望んでいるものを正確に把握しなければまともな設計は出来ません。把握し、整理する作業を要求分析と呼びます。

まず、お客さんの要求をひたすら聞き取るという作業が行われます。ヒアリングです。
それを箇条書きにする所までは誰でも出来ます。が、この段階でも、「何を聞くべきか?」を判断するには経験に基づくセンスが必要なのですが。

とりあえず要求の一覧ができたとしましょう。でも、ここからが出来る人間が少ない。


聞き出した、或いは見つけ出した要求はまずその出所となる目的を明確にしなければなりません。
お客さんが目的を明確にできるケースは少ないです。
お客さんは通常、今までやって来たことができることと、こんなことができたらいいなぁという思いつきで要求を出します。
なぜその機能が欲しいと思ったのかを見いださないと、必ずといってよいほど後で気が変わってしまいます。

なので、まずやるべきは要求のリストを目的のリストに変換することだと思います。
そうすると、目的を実現するよりスマートな方法が大抵はでてきます。
こちらがお客さんの目的を把握した上であれば、こちらからの提案も受け入れてもらい易くなります。

目的の見極めが正しければ、余計な開発をせずに済み、且つ、のちの仕様変更の可能性を減らし、且つ、仕様変更があっても対応し易い設計を行い易くなります。

この「整理」作業なしで「分析」フェーズを終らせてしまっているケースが多いなぁ、というのが感想なわけです。

んで、ソフトウェア開発に限らず、何か他人の期待するものを産みだそうとする時全般に通用する考え方だと思うので、この能力を鍛える努力をしましょう。という所で今回は終りにしておきます^^;;。
実はあんまり勉強してない自己流なので、あんまり突っ込んだ話すると用語やらが怪しい可能性が^^;。でもさぁ、これほんと出来ない人多いのよ…。

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2004.02.08

「権利」と「権利の侵害」は表裏一体

儀礼的無関心関連のコメントの中から、もやもやしていた部分を晴らしてくださる一文が。
[はてなダイアリー - 明日の読者]

確かに「公益」を満たすためにはそれぞれの個人がそれぞれ折り合いをつけなければならないでしょう。しかし、それならば「儀礼的無関心」は成り立ちません。関心を示し、覗き見、冷笑を加える者の「権利」も、それを希求する権利を認めるとすると、少数のヒトに関心を示して貰い、覗き見は勘弁してもらって、自分の文章に冷笑される事を厭うヒトの「権利」は侵害されます。常に権利と権利の衝突と調整が起きるだけになってしまうじゃないですか。簡単な論理矛盾ではないか?

経緯はこちらを見るのがよいかと思います。

なんだ、誤用だったのか>儀礼的無関心
にも書いたように、そもそもここで議論されている問題を「儀礼的無関心」と呼んでしまった事が問題なんだけどそれは置いておいてっと。

「覗き見する権利」はあるが「見られたくない権利」もある。「リンクする権利」もあるが「リンクを拒否する権利」もある。「赤裸々なことをWeb上に書く権利」もあるし「それを見たくないと主張する権利」だってある。「サイトを畳む権利」もあるし「見たいと主張する権利」もある。すべてのことについて「主張する権利」があるし「聞かない/拒否する権利」もある。

何らかの権利を行使した時にはほぼ全ての場合に他の何らかの権利を侵害している。
すべての権利を守るのは不可能なので、「守られるべき権利」というものが生まれてくる。

誰のどの権利が守られるべき権利なんでしょう?
この問題に限らず、常に意識したいものです。

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他にもいろいろやり方はあるだろ症候群

レビュアーとか上司って、よくこういうことを言うわけです。
あと、既存のサービスに対して技術者の観点で文句を言う場合もそうですね。
評論家もか。

自分がそれに近いことをやったときにふと思ったことですが、ある程度の経験があって自信過剰になってくると、こういう言動が出易くなるように思います。しかし、実際に自分がやってみると穴があったり、存外に苦労することが多い、と。また、「いろいろ」の中のどのやり方にするかを選別するのにかかるコストが並み大抵ではないということを忘れてしまうことも多いですね。

で、とにかく「そのやり方じゃダメだ」と言いたい場合に使われる。
ただ「ダメ」というだけよりはよっぽど良いのですが、もし対象が協業者であるなど、相手の出来具合が自分にも影響を及ぼすような場合なら、相手のそれまでの苦労とこれからの苦労を意識して発言したほうがよいですね。
自分への影響が完全に0、というケースは実はあり得ないんですけどね。

自分がやるならどの方法を選ぶか?
自分がやったとしたらすべての問題を妥当な時間で解決できるか?
すなわち「それは本当に適切なアドバイスであるか?」です。

ただ、こういう場合のよくある指摘として「んじゃやってみろよ」とか「自分は出来ないくせにそんなこと言う資格はない」とかがありますが、これは間違った指摘の仕方だと思います。

自分で出来なくても言ってもいいでしょう。ただ、自分がやらない立場であるならば、相手がそうできなかった事情を想像し、たとえ提案に確固たる自信があったとしても、思いも寄らない穴があるかもしれない、と考えながら言えば、上記のような無駄な反論を受けずにすみますし、どんどん言ったほうが建設的であると思います。

世の中の評論家の多くは自分が出来ないのに評論対象の苦労を無視した指摘の仕方をするから嫌われるのです。
もちろん「評論家」と呼ばれる人でも自分の立ち位置をわきまえた方はいらっしゃると思いますけどね。

office 氏はどうだったかな…などとつぶやいてみたり:p。

念のためですが、これは指摘する側に対する心構えの話です。
指摘される側は、その言い方や相手によらず、内容をよく聞く姿勢が必要です。

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2004.02.06

傷つくことが恐いなら希望を持たせることを言おう

[neko blog: 人を傷つけたくない、だけど]

知らぬうちに人を思いっきり傷つけていることがある。
以前は怖かった。自分の何気ない言葉が、他人に痛みを与えている。時には、人生を大きく変えるくらいの傷を与えているかもしれない。
・・・何もしゃべれないじゃないか。

こういう悩みは多いと思っています。そう考えられるだけまだよいと私は思うんですが^^;。
こちらの記事では「開き直ろう」という意思表示をしていらっしゃいますが、私はほんの少し違う考え方を持っています。

開き直って、人を傷つけるかもしれない/気分を害するかもしれないという気持ちを忘れたくもないと思っているわけでして、つまりどう自分を納得させているかというと、

ポジティブな発言を心がけよう

です。
相手毎に「何を言ったら傷ついちゃうか?」を常に考えながら生きるのは苦痛です。
ポジティブな発言によって傷ついちゃう人も中にはいるでしょうけれど(たとえば鬱系の方とか)、それによって恨まれることはほとんどありません。僻む人はいるかもしれませんが^^;。

もっといえば、人に指図しなければ傷つかれることは無いです。
人が勝手に自分に期待していて、その期待と異なったためがっかりされることはあるかもしれませんが。
他人のために生きているわけではありませんし。


ところで、私自身がそうでもあり、より問題だと思うのは、「自分のなにげない発言が他人の怒り/悲しみを買い、それによって自分が傷つくことへの恐れ」です^^;。この考え方によって萎縮して発言出来なくなるのは恐いです。上記の「人を傷つけたくない」というは建前であり、本質的にはこちらだ、ともいえます。

利他的行動も結局利己である。なぜなら「他」がどう感じるかはわからないのだから。
おいらが自業自得主義であることがこれを書いたことでいっそう明確になりました^^;。

私はこの状態に陥るのを避けるために、普遍的な事実以外については、断定形や特定他人を糾弾する言い方はなるべく避けます。あくまで「自分はこう思う、間違っているかもしれないけれど」というスタンスです。このスタンスで人が傷ついたり怒りだしたりするのは、おかしな話と思うからです。初めから相手が自分を糾弾しようと思っている場合は当てはまりません-_-。


そのうえでさらに、なるべく「ポジティブな考え」を表明するわけです。
心がけとしては損が少ない考え方である、と私は思っています:p。
この辺に書いたように、特に女性に接する際にはこれだけでは足りないんだろうなぁとも思っていますが^^;。


自分が納得できるより良い考え方を発見したら(教えてもらえたら)変えるでしょうけれど。:)

あぁ今日もまとめ下手-_- まだまだ精進が足りん…。

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meta な視点を持とう、ただ、それを議論する時は別の機会に

皆さんは「メタ」って言葉をご存じでしょうか?
私の場合は、meta-class といった用語で意義を覚えたクチですが(ってマニアックだな^^;)、最近はメタブログといった用語がどこででも見られるように、「メタ」流行り、かも知れません。まぁもっと昔からメタ議論とかよく言われてましたけど。
特に技術者の中ではよく使われます。

さて、普通の人の中にはメタ議論とか言われてもピンとこない人が結構いらっしゃるのではないかと思います。
これは要するに、「議論の仕方」を議論することです。meta という語は接頭辞として用いられ、「一段下層からみた」或いは「一歩上段に構えた」(?)のようなニュアンスの意味を付加します。あるテーマについて議論している際に、いつの間にか「この言い方は~」とか「主張の表現方法が~」といった話にすり変わっているようなケースで、「メタ議論がされている」などと言います。
メタブログといえば、blog は何かを表現するツールであるにもかかわらず、そこで blog 自身の使い方に関して語られるような事を言います。

他には、たい焼きを製造するという話題に対して、たい焼きの型(鉄のやつね)の製造に関して考える、というのもメタな視点です。技術屋用語としては、インスタンス→クラス→メタクラス→メタメタクラス…というようにメタ化して行くことができます。
「それを形成するために必要なもの」といったところでしょうか。

メタな視点は非常に重要で、論理的思考能力を向上するためには前提となる考え方だと思います。

例えば何かを議論している時に、その議論自体のテーマから離れて、議論の進み方がこれでいいのか?などと考えるのは、将来の効率を高めるために重要です。ただ、それをその議論中に話題に出してしまうと元のテーマが失われます^^;。私はその場で言わないとすぐに忘れちゃう人なので、とりあえず言っておきたくなる人なんですが-_-。

メタな論点は別途議論を行う場を設ける必要があるでしょう。

MLなどを見ていた人としては、「それは別スレッドで話してくれ」となるわけですね。

そんな感じで、突如メタな視点を表明することは議論を混乱させる元になりますが、メタな論点を別個に議論するのは大いにありです。ですから、メタブログ論もおおありなのです。通常の話題をされている所に割り込んでメタブログ論を展開するのはあまりよろしくありませんが。

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2004.02.02

人間という「種」の生い立ちを考えて、また日常に戻ってくる

漫画繋がりでおいらがお薦めする本をもう一つ。

言わずと知れた寄生獣。もしかしたら自分の人生観を変えた本かもしれない。
今思うと人間について考えるようになったきっかけがこれだったかも、と思うし。

人間が変わる方法の一つとして、「自分の起源」「自分の生きている文化の起源」「人間の起源」「生物の起源」といった風に深いところまで考えてみる、というのがあると思う。そして、そこまで考えを及ばせてから、日常や今後の「自分」に考えを戻す。

それは一度やったらもういいかというと実はそうでもない、とも。

ある時点での人生観は、それまでの経験、とくにそれまでに出逢ってきた人、見てきた人に応じて既に変化している。ただ、それを今後のより良い変化に生かすためには、過去にしてきた行動と、「起源」について考え直すという行為が必要じゃないかなぁとふと思ったり。

もちろん毎回「生物の起源」とかまで遡って考える必要はなくて、もっと浅いところまででいいんだけど。

「バガボンド」読んだ時も「話を聞かない男、地図が読めない女」を読んだ時も同じようなことを考えたなぁ…そいえば。で、そのときどきで違った考え方だったなぁ…。
と、なぜか感傷的に終ってみる^^;。

今日はまとめる気力が無い-_-

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2004.02.01

男女の"違い"、文化の"違い"を認めよ

昨日は気付いたら0時を回っていて東京駅で東海道線の終電に乗りそこね…-_-。
京浜東北線が辛うじてあったので横浜まではたどりついたけど、そこでジ・エンド。
しょうがないので、漫画喫茶で始発まで時間をつぶしたのでした-_-。
自宅はもっと先ってことね。

で、バガボンドなんぞ読んでたり^^;。

こういう漫画が特別に面白いと思うのって、(例によって例の本を読んだ後だけに^^;)男として進化してきたからなんだろうなぁ、と思ったり。女性でバガボンドを面白いと思う人は人間模様とか武蔵や小次郎がかっこいいからとかはあるだろうけど、斬り合いのシーンそのものだけを取っても面白いと思える人は少ないんじゃなかろうか…なんて^^;。

男性が読むと、ストーリー/人間模様/絵に加え、ある種の狂気や勝負/殺し合いのようなものへの心の奥底に眠っている「共感」が呼び起こされて、相乗効果が発生するんではなかろうか?などと感じてしまったのでした。

その感覚がコモンセンスかナンセンスかは調べちゃいないさ:p。ただ、「例の本」なども読んだ上での自分なりの分析。


そして、同様のことは「文化」にも言えるんだろうな、と思った。
今は世界各国で種の交わりが起こっているけれど、ずっと昔は別の国に住んでいる人との交流は無かったわけで、人類はアダムとイブのように一対から派生したわけではなく、同時多発的に発生したと思っているので(多分^^;)、全く異なる文化の中で進化してきた人たちが全く同じなはずがない、と。
つまり外見(肌/髪など)以外にも、もっと根本的な、本能より少し上くらいのレベルで差異があっても当然だよなぁ、と。

そうすると、たとえば日本で生まれ育ったアメリカ人でも、両親が生粋のアメリカ人だと、日本人とは何かが違う可能性は絶対にあるよねぇ。違うからって差別しちゃダメだよん。もちろん。

「違いはない」と自分に言い聞かせるより「違いがある、ただそれだけだけど」と認めるほうが健全だよなぁ、とか思ったり。

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2004.01.30

人間は本能として"癒し"機能を持っている

[Passion For The Future: 赤ちゃん学を知っていますか?―ここまできた新常識]

新生児微笑。産まれたばかりの赤ん坊が眠っている間に微笑する現象。この微笑は一部のサルにも起こるらしいが、本能的なもので、感情の表出というわけではないらしい。この微笑は母親の注意を惹き世話をさせる効果がある。自然の生き残り戦略の上で、遺伝子に組み込まれた仕組みなのだろう。

まさしくそうだと思います。人間の赤ちゃんは他の生物とは違い、長い間親に面倒を見てもらわないと生きていけません。
そんな生態で生き抜くためには、親の気を引く愛らしさも組み込まれた機能として持っていなければ成り立たないわけで。
当然親の側にも赤ちゃんのような形態を他のものより好む、あるいはそれで癒されるという機能が組み込まれているのも解ります。

で、赤ちゃんが他の人を癒す機能が大人になったからといって消えてなくなるわけではないはずだ、とも思います。
一人では生きていけないとはよく言われますが、コミュニケーションを求める、またコミュニケーションによって他人が癒されるというのも、実は本能的な事象かもしれません。

「愛されたい」「愛したい」ですか。

なぜ、そういう気持ちになる or そういう話題が尽きないかというと、人間という生物になっていくうえでの進化の結果なんでしょうね。

で、「自分は人に愛されたいとは思わない」なんて口でいう人だって、実は愛されたいという本能はあり、愛されると喜びを感じちゃうんですね。で、本能として愛されるべく行為を無意識的にすることがある。
逆に他の人を愛するという行為が自分にとっての癒しになっちゃうのも、ただ生存するためには不要だけど、子孫を残すためには必要だからなわけで、なんつーか、笑顔を見るとほっとするとかいうのも、見事だよなぁ、とか思ったり^^;。

そういうふうに、なぜ「愛情」があるのか?とか考えているなら、「話を聞かない男、地図が読めない女」みたいな本もすんなり読めるのよね。最近になって読んだから話題にするけど^^;。
この本に書いてることには、結構女性が拒否反応を示すらしい。
ある人の書評によれば、男性は女性に比べて感性が欠落している部分が多い、ってことが力説されているというのに。

脳に絡めて主張しようとしているために胡散臭い部分もあるけれど、多くは事実を語ってますよねぇ?>読んだ方^^;
もちろん本の冒頭に書かれているとおり、あくまで傾向の話であって、ひとくくりに論じているわけではないわけです。なのに「ひとくくりにするな」みたいな批判が出ているのがなんともですが。

話が飛んだので戻してっと^^;。

そして3ヶ月を過ぎると、目を見て笑うようになる。昔、「イヌに遊んでもらう本」というのを読んだことがある。イヌは、基本的にはみつめあってはいけないらしい。イヌ社会では目と目を長く合わせるのはケンカを売るような行為なのだそうだ。(だから、知らないイヌに真正面から目を見て近づいてはいけない)。他の動物もほとんどそうらしい。そして、この本によると、人間と一部のサルは愛情を持ってみつめあう珍しい例だそうだ。微笑みかけると微笑み返す。
ウチの息子も目を見てこちらが笑うと笑うようになった。興味深いのは、息子の機嫌が悪いとき、あやそうとして笑いながら目をみつめると、なんと、首を曲げて目をそらすのだ。何度続けてもそらす。意図的にやっているのは間違いない。彼としては喉が渇いたとか暑いとか暇だとか、問題が解決されるまでは、笑いたくないのだろう。パワープレイ的なコミュニケーション戦術は、生後5ヶ月で既に始まっているのかと感心した。

あははは。うちの娘ももう3歳ですが、機嫌が悪い時は頑固ですにゃ^^;。
それでも最後には必死に親の機嫌を取ろうとしたりもします。健気なり。

「目を見る」というのが(ほぼ)人間に限られた行為というのは知りませんでした。
興味深いですねぇ。

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2004.01.26

原因究明は思慮のセンスを磨くが、その判断を絶対と思ってはいけない

[ono: それはなぜ起こったか]より、

 原因-結果系は予想ができるし原因究明ができるけど
 刺激-反応系(社会や歴史、コミュニケーションとか)は
 偶然なんだよ

いつも興味深い言葉を紹介してくださっています^^/。

私は、(「心理学化する社会」を読んだこともあり^^;)今の世の中は刺激-反応系のものであってもいつでも「原因化」がされてるなぁ、などと思ってしまいますが^^;。
で、むりやり原因としてこじつけられたり。
でも以前、
[philosophical : 心理学化する社会―なぜ、トラウマと癒しが求められるのか]

原因を求めていろいろ考察すること自体は良いことと思います。責任を求めるのはほどほどがいいけど

こう書いたとおり、原因を求める姿勢は何ら問題無いと思ってるんですよね~。

で、これまた興味深いのが以下です。

企業や学校など組織で、「○○が問題だ、原因を究明しよう」と組織の仕組みやコミュニケーションの問題を取り上げ、トヨタで言われるところの「なぜ?を5回繰り返す」をやってみましょう。
「社長が悪い」「校長が悪い」になります。
確率9割以上。予想可能。

そうですねぇ。なにしろ「組織の責任者」ですから、「社長次第で問題は回避されていたはず」となるのはある意味必然ではあります^^;。
原因追求は何段階もメタ化していくもので、その一区切りの位置が「社長が原因」なわけですが(その先には「文化」「社会」といった方向になる)、そこに至る前にも原因らしきものは沢山ありますしね~。
上記はメタ化を5段階も行えばほぼ「社長」に行き着く、という話ですね^^;。
その何段階かの「原因」のうち、もっとも改善の妥当性がある「原因」を見極める作業というのが人の問題解決力のセンスを向上しますから、やっぱり原因を検討/検証するのは何においても有用ですね。

私的に注意したいのは上記引用にも書いたとおり、そこで見極めた「原因」が唯一と思いこんで「責任追求」に躍起になると、まずい風が吹きはじめる、というところ。

また、「社長が原因」が一区切りの位置にある、というのも興味深くて、そこに行きつく(それ以上メタに追求をしない)ことが多いのは、責任を取れる妥当な根幹であるから、なんですよね~。あぁ社長って可哀想:p。
あぁ、そういえば「社員が悪い」と言った「社長」もいたっけ:p。
でもそこまで行かなくても図太さも無いとほんとにやっていけないでしょうねぇ^^;。

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2004.01.24

労力の分散とコミュニティの衰退

コミュニティは無数にあり、ほぼ全ての人は複数のコミュニティに属しています。
「友達(というより知人)の輪」もコミュニティですから。

単なる友達の輪というだけでなく、何らかの活動主体としてのコミュニティに属している方もいらっしゃることでしょう。
そして、その中には実質的に自分が主メンバーであるコミュニティもあるでしょう。

さて、今はインターネットな時代。興味を表明するとそれについて何らかの実行主体としてのコミュニティが簡単に生まれます。
自分が「これやりたい」と言うだけで、自分が主メンバーとなるコミュニティが生まれる可能性が高くなっています。

意欲/能力ある人ほどたくさんのコミュニティの主要メンバーになってしまって、その時点でもっともモチベーションが注がれた数個以外についてはおろそかになっていくものですね。
他のメンバーが継続して活動してくれていればいいですが、コミュニティの活発さが無くなっていくと、自分のモチベーションもさらに下がっていってしまい、急速な衰退という結果になる、と。

本当に能力のある人は、自分の溢れそうなモチベーションを押さえて、他の人のモチベーションを上げる事のみに注力することが出来るんでしょうけれど、なかなかねぇ…-_-。

格言としては、こうかな。
やりたいことを他人にやりたくさせることができるのが真の能力者

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2004.01.23

求めるものの意義を理解させないと人を変えることはできない

前回は自分が相手の理想に振り回されると将来的に耐えられがたい苦痛になる(かも)という話でした。
もちろん前回も書いたように、相手の望むものと自分の望むものが一致しているなら変わっていけます。

逆の立場になって考えると、相手を変えさせようとする行為はこういうことになりますかね。

自分がなってほしいと思っている人間像を相手に理解させ、さらに相手の目標をその人間像に向かわせる

ただ「こうしろ」「こうしてほしい」と言うだけでは相手は変わりません。

念のため。「理想の人間像」は「自分がなりたいと思っている人間像」と「相手になってほしいと思っている人間像」の二種類について述べています。

前回は「自分がなりたいと思っている人間像」を相手に納得させようという話でした。
当然、「相手になってほしいと思っている人間像」も相手に納得してもらわないと、同じように苦痛が待っています。

さて、そこで考えるべきは、相手の人にどんな人間になってほしいんでしょう?ということです。
果たしてそれは自分が人から要求された時に納得できる人間像でしょうか?

これらのことを常に心がけながら行動すれば、自分の態度は少しずつ変わっていけるのではないかと思って頑張っております^^;。
自分に当てはめた際に、自分が良くても相手は嫌だと思うかもしれないし、自分が嫌でも相手は問題無いと思うかもしれない、ということもあるわけですが。それを察知せよというのはかなりの高望みだと思う。

よく忘れるのでこうやって文章化する機会があってよかったです^^;。
あと、「相手」は最初「パートナー」と書いていたのですが、限定したくないので変えました。

え?私が相手に望むことですか?
そりゃぁ上記のようなことを心に留めてくれることです^^;。
接近戦^^;でなければどんな思想であっても全然意に介さないですけどね。

P.S.
ほんとは「~なら、人を変えることができる」と肯定形にしたかったけれど、今回のは必要条件にすぎず、十分条件ではないのでこういうタイトル。

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2004.01.22

好きな人の理想に合わせようと必死になると後で苦労する

ふらふらと恋愛系 blog などを見ていた時にふと感じたこと。

好きな人に好かれようとして、相手の好きな人間像を求めて一所懸命になる人がいます。

好きになっちゃったらしょうがない、というのはそうなんだけど、自分を押し殺して一時的に相手の心をこちらに向かせても、メッキはすぐに剥がれます。剥がさないようにずっと努力するのは無理があります。そうするとその相手との関係を保つのは双方にとって苦痛になります。

自分がその人の好みの人間に変われればいい(ただ演じるだけではなく)わけですが、人間が変わるには時間がかかります

誰しも理想の人間像は持っているはずで、それを目指して継続的に何らかの努力はしているはず
今の自分、または自分の目指している人間像を好きになってくれる人が現れるのをゆっくり待つのがよいのではないかと思います。

せめて、自分の目指している人間像の良さを分かってもらう、という形でアピールしたほうがよいなぁ、と。
あるいは、相手の求める人間像の良さを心から認めることができるなら、自分の目指す方向性を変えるのもありです。が、そのための努力をこれから始めるのだから、時間がかかることはお互いが納得しなければなりません。しかも、その新たな方向性への変貌は結局実現しない可能性が高いのが辛いところ。

いずれにせよ、自分の理想とする人間像と相手の求める人間像が一致しなければなりません

ま、こんなんは「恋愛」の次のフェーズかな、という気がしないでもないですけどね^^;。恋愛は大抵衝動的だろうしねぇ…。

媚びてなくて誰にも好かれないなら、それは自分の理想とする人間像が間違っているか、理想に全然近づけていないか、ですね。もちろん好かれる人間になりたくないなら「間違い」ではないですが。

で、こういう話(「媚び続けるのは苦痛」だという話)はサイト運営やらコミュニティ形成なんかにも通じるのよねぇ。こっちの場合は嫌われるようなことも、「話題」となって人気になることもあるけど。一定以上"近づく"といろいろあるもんです^^;。

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2004.01.21

アイデアは混乱より生まれる

逆に言うと、「秩序の中からは新しいものは生まれにくい」ってか。
私、話題を発散させるの大好きです:p。
整理整頓もあんまり好きではありません。一度しまい込むと目に入らなくなったり、また片づけなければならないという強迫観念からまた引っ張り出すことを躊躇ったりするので。

雑談してたら面白いことが思い浮かんでも、「さぁ、アイデアを出そう」と言われてなかなか出てこないという経験、ありませんか?

何が言いたいって、きちきちやることがよいとは限らないってことさ:p。

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2004.01.19

自分が天才だと思う人は大成しない

もしかしたら天才かもしれない症候群

すばらしい考察。:)
良い文章ですのでリンク先も読んで下さいねん

ここでの「天才」は、「人より少ない労力でものすごいものが作れてしまう能力」ですね。カリスマ性などとは無関係に。
人から天才といわれる人は数知れずだけど、自称天才ですごい人なんていないよ。
少なくともまだ成果をあげていない段階でそう思っちゃうと既に負け組。
で、上記では、「自分は天才じゃない」と言いつつ、向上への労力を払わないという、「結局は天才と思ってるんでしょ?」な人がいるよねってお話。
はい。います。そして、自分がそうならないように…。

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2004.01.17

危機は変化へのきっかけ、希望は変化への後押し

[ono: 吉野家~鋭く変化中!]より。

希望が危機感を上回っていることが変化の条件

すばらしいですね~。私のオリジナルでは無い&オリジナルの出典がどこかはわからないわけですが^^;。

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2004.01.15

現実世界は意思を持った非同期コンピュータ

ここでいう「同期」とは(一時的であっても)物事を逐次的に行うこと。当然「非同期」とはばらばらに、あるいは同時にさまざまなことが行われること。昔のコンピュータは CPU(演算装置) も一つしかないし逐次実行しか出来なかったけれど、今は一つのプログラムを実行するために CPU が複数使われるのもあたり前だし、たくさんのコンピュータが連携して巨大なプログラム(システム)を動作させるようになってきている。

完全な非同期では大きな物事は達成できないので、何ヶ所かで同期(待ち合わせ)を行う必要がある。コンピュータ間のやりとりもそうであれば組織で人を扱う場合もそう。情報/状態の整合性が壊れるのを避けるためには同期を頻繁に行うということがされるが、そうすると誰かの作業が終るのを待っているコンピュータ(人)が多数生まれて性能(生産性)が落ちる、というのはコンピュータの世界での常識。

非同期プログラミングにおいては、「同期は最小限に」がキーワード。当然、組織(人の集団)が物事を遂行するにあたっても、「同期は最小限」が効率をよくする。会議の回数と時間は減らそう^^;;。

ただ、コンピュータ(CPU)と違って、人には「意思」がある。誰かの作業を待っている間にも勝手に何かをするし、他の人を待たせていてもしたいことを優先する。そして、その人自身が充足されるなら、指示とは全く異なる、または指示したこと以上の成果を出してくる。

さて、何が言いたいんだ?^^; 思いつきで書き始めたけど、一つはやっぱり「同期は最小限にすべし」は人にも当てはまるってことだね。他の人を待たせる可能性を極限まで減らすわけだし。おっともちろん個人のスケジュールを決定する上でも同期が必要な箇所の見極めは重要だよ。でもって、人の場合は、同期が必要とならない時間が多ければ多いほど、新たなものが生まれる可能性が高まる、と言えるかもね~。

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2004.01.14

人の思想の価値に権威は関係ない

語り口やら趣味やら実績やらの問題で、意見が穿った見方をされたり興味を持たれないことって多いけれど、思想や意見の正当性とは無関係。聞く側は絶対に忘れてはいけない。

もちろん表現する側も、意見に興味をもってもらう努力を怠ってもよいわけではないけれど^^;。

ただ、有名人になると、指摘する人の数も膨大になるので、S/N 比は変化しないとしても有効な指摘と詭弁/屁理屈を見極めるのに掛かるコストは膨大になるのよね…。で、知らない人からの指摘だったり、過去にとんでもない意見を言っていた人からの指摘だったりすると、無視しがち。自分がある程度の権威になっちゃっていると、他の人が萎縮して反論しにくくなるという現象もあったりするので、堂々と反対意見を言えるのはそういう人である比率が高くなると思う。

もちろん個々に反論していく必要はないだろうけれど、意見の正当性の評価をする際には、誰からのものであっても一旦その人の人格と切り離すようにしないとね。

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2004.01.11

心理学化する社会―なぜ、トラウマと癒しが求められるのか

心理学化する社会―なぜ、トラウマと癒しが求められるのか(斎藤 環; PHPエディターズグループ; ISBN: 4569630545)を半分ほど読み中。

前半ははっきりいって私的にはどうでもよかった。今、さまざまなストーリーでトラウマ(過去の心の傷)が使われている理由は単に勧善懲悪が流行らなくなったから、と思ってるし^^;。

で、まだ途中だけど興味深かったのは p76 の「トラウマの結果は予測できない」の部分。

注:引用は書き写しです。あと、また引きの引用にあたります_o_。

精神分析の批判として、故・西丸四方氏が出したユーモラスなたとえ話がある(創元医学新書『異常性格の世界』)。ある子供が戸棚の中の砂糖をなめては、母親に叱られることを繰り返した。その子は将来どういう人間になるだろうか。
  • ある人はのらくら者になった。母親に叱られすぎて、欲望を押え込んでしまう癖が身についたからだ。

  • ある人はサディストになった。叱られすぎて母親や妻に復讐することに喜びを感じるようになったからだ。

  • ある人はマゾヒストになった。叱られる苦痛を耐えているうちに、そこに快楽を見出したからだ。

  • ある人は同性愛者になった。母親を嫌って父親を愛するようになったからだ。

  • ある人はスキーの愛好家になった。砂糖を雪に置き換えたのだ。

  • ある人は仏教が好きになった。砂糖は甘いので音の連想から「尼」が好きになったからだ。

西丸氏は、ざっとこんな語り口で、この子供の将来のバリエーションを一〇通りほども並べてみせる。…

ぷぷぷ。要するに、今に対して過去の特定の事象に因果関係を見出すのは簡単だね、というお話。逆に言うと、今の人格が過去の特定のトラウマにもっとも大きな影響を受けたことを証明するのは不可能に近い、と。

なんというか、原因を求める姿勢も行きすぎるとこう(たとえば上記の最後の例とか:p)なっちゃうんだなぁ、としみじみ思った。

まぁでも原因を求めていろいろ考察すること自体は良いことと思います。責任を求めるのはほどほどがいいけど。

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2004.01.10

他人のモチベーションを下げるもっとも有効な手段は自分の価値観の押しつけ

っておぃ逆説的だな:p。他人のモチベーションをあげる方法はまたいつか考えよう…。
# それは永遠の課題と思っている。もちろんもっとも有効な手段は「したいようにさせる」ことなんだけどね。

人は自分が意義を理解していないことをやれと言われるとモチベーションを下げます。「やることになっているから」で納得しちゃう人もいますが(思考停止と言います:p)、それだと積極的にやろうという気になる理由がないので、一定以上の成果にはなり得ません。
その人がもっとも価値を感じていることを尊重しつつも、自分のして欲しいことの価値を理解してもらうことに集中せねばですねぇ。してもらうことに集中するのではなく、ね。

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2004.01.09

自分に満足せず、他人は受け入れよう

「人に優しく自分に厳しく」の言い換えでしかないんだけど、要するにそういうことっす。この日記に書いてることのほとんどは突き詰めていくとこれだしねん。
先日の日記にあるとおり「"自分の権利と相手の義務"より"相手の権利と自分の義務"を意識しよう」ってのもあるね。

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2004.01.08

「問題解決力」を高める思考スキル

「問題解決力」を高める思考スキル(1)
(現在第5回まであります。http://jibun.atmarkit.co.jp/lskill01/index.html から辿れます。)

これは非常によさげな連載。おいらがここで言わんとしていること(※)をちゃんと裏づけ/説得力ある形で^^;語ってくれています。

※これから言おうとしていたこともあるのでネタ損もあるけど-_-。もちろん考えてもいなかったような視点もあった。

はたから見ていて目的を見誤っている/見えていないことは本当に多い。自分も与太に流れて議論/思考を発散させることはよくあるけど、おおもとの目的は忘れないように気をつけてはいるつもり。でもちゃんと読んでもっかい頭にたたき込みなおすのに最適な記事でした。
特に「論理展開」については自分が全く下手くそと思っているところなのでよーく勉強しておかねば^^;;。
# …ってか、やっぱり本読まなきゃなぁ…と思うよ…-_-。

IT関係の記事ということになっているけど他業種はおろか日常生活でも役に立ちます。
是非みんなが意識して欲しい内容〜。

ところで第3回にある「論理展開における6つの“落とし穴”」ですが、これはまさしく詭弁というやつですな。詭弁は大抵確信犯なので厄介ですが、自分も含めて大抵の人間は自分の考えにバイアスを置いてしまう物なので気付かないうちに詭弁をふるっていたりするのね-_-。気をつけましょう〜。
ついでに、前においらが感心したリストをリンク。オリジナルは 2ch のコピペで誰が書いたかも不明ですが。いつの間にか項目が増殖してるや^^;;。笑える上に感心できるのではないかと。

PukiWiki - 詭弁の見抜き方

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2004.01.05

しょうがない、で済ませるとそこで成長が止まる

「しょうがない」ことは一杯ある。数ある個性の中でも良い面と悪い面が同時に発生し、悪い面を改善しようとすると良い面も消失する類いのものとか。たとえば「鈍感/おおらか」とその反対の「神経質/繊細」、同じことなのに良い側面から見た言い方と悪い側面から見た言い方があることはたくさんある。この場合、もちろん良い面を伸ばそうとした結果、悪い面も同時に目立ってくるといったことになりますね。

で、そうして出てきた悪い面は「しょうがない」んだけど、人に対するいいわけに使っちゃいけないと思うわけです。人のことは「しょうがない」と思ってあげないとだけどさ。

で、自分でも他人でも「しょうがない」ことはしょうがないんだけど、だから改善について考えないという態度じゃなくて、まず自覚して、それが悪い面で出てきた時に悪い面が出ていることを意識するようにしたいな、と。

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2004.01.04

やらなければならない理由を何としても理解し受け入れよう

やらなければならないこと…家事とか諸々手続きとか^^;;。世の中の旦那はその辺を嫁に押しつけていることが多いので、多くの嫁さんの不満は「やりたいことができない、時間がない」ということになります。そりゃぁたしかに一生の半分を家事と育児に費やした嫁さんは、いくら忙しくても、

>振り返ればなんて幸せな人生だ、ときっと思うだろうなぁ。

となるかどうかは微妙ですね…。主婦業が好きという女性も割といるとはいえ。
自分は結婚前には「お互い働くなら家事半々、専業なら任せる」といった認識だった気がするけれど、お互い働いている現在半々できているとは思えないし-_-。
# まぁ稼ぎ額の差を鑑みて、半々まではしなくても許してもらえそうだけど^^;。ただそれは「人生の充実」という観点からは無関係な話。

この問題は複雑でまだあんまり考えてないので保留^^;。とりあえずはこのあたり、自分の「幸せ」はなんなのか?の見極めにかかっているような気がする。ただ、その見極めは結婚前にしなければならないんだろうなぁ。結婚は相当な覚悟をもって挑まないといけないってことですねぇ^^;。

それはそうとして^^;、「なんで私が」「なんでこんなこと」と思ったが最後、その機会が来るたびにそれは積み重なるストレスとなるわけで、「ストレスは自分が作り出す」ってなもんで、自分次第でストレスじゃなくすることができるはずなんだな。

不満を感じやすい/感情の起伏が激しい人ほどストレスを感じやすい。もったいないなとよく思う。けれど自分のように何事にも動じなくなっちゃっても感動を感じにくくてもったいない事がある。というか、些細なことに感動できる人は可愛くて羨ましいね。両立できそうでなかなかできる人はいないみたい。

おっとまた話がそれた^^;。まぁここは私のような冷徹君の書いている日記なので、「不満」を「疑問」に集約できるようになれば、そして「やらなければならない面倒ごと」の存在意義をなんとかして受け入れようとする考え方一つでストレスにはならない、という話でした。おそまつ〜_o_。

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Time is...

Time is...

昨日(ってもついさっき^^;)のネタをひねりだしたのはこの記事を読む直前だった^^;;。
で、さすがろじぱらというか、若いのに文章うまいよなぁ。

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2004.01.03

時間が足りないと思っている人は一生時間が足りないが満たされている

やりたいことが多い人もいれば、いろいろ口を出してしまっていろんな責任をかぶってしまったせいで手が回らなくなっている人もいる。自分からやるとは言っていないのに人から責任を押しつけられちゃう人もいるか。

この手の人はずっとやりたい/やらなければならないことが尽きない。で、命尽きる時にはやり残したことがいっぱいあるなぁ、って人だけど、振り返ればなんて幸せな人生だ、ときっと思うだろうなぁ。

時間が余っていると感じている人はどうだろう?死の間際にどれくらいの出来事が思い出されるんだろう…。

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2004.01.02

誰にも見せなかった成果は実績ではない

人に見せることをためらわないように。

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2004.01.01

たまには聞き人形になろう

女性が話をする時は共感を求め、提案は欲しない事が多いという。
おいらが今までここに書いてきた「目的は事態の改善である」とか「自業自得」とかのポリシーは比較的男性一般には多い考え方と思っているけど、女性に対しては通用しないケース(その考えかたで対峙すると逆に話がこじれるとか)がままあるということ。

で、よくいろんなところに書かれている「女性に対しては提案はしないで話を聞くことに徹するほうがよい」みたいなのは、おいらにはちと受け入れがたい。異論があるのにうんうん言えないし、解決手段があるのに言わない、ただ話を聞くという時間を共有するだけだと、なんか自分の成長が阻害された気になるらしい。いや、表面上聞くだけにして、自分の中でいろいろ考えるにとどめればいいんだろうけど、それだと当人が成長しなくて、いつまでたっても同じ内容を聞かされることになるってあたりがね。

ある女性の話では、女性は話をしているうちに自分の中で解決策を見つけだすことができる(※)そうで、そもそも議論がしたい訳ではないそうです。男性でも、人に悩み(問題点)を説明しようと試みることで解決方法がひらめくことはよくあります。そういう場合は提案できなくても話は聞いてくれるという人で充分で、私はよく「聞き人形を利用する」みたいに言ったりします(私の場合はこれは愚痴の話じゃなくて業務上の問題解決の話なんですが^^;)。

※具体的な解決策に限らず、「話を聞いてもらった」ことで「すっきりした」ということ自体が解決だったりすることも。まぁ愚痴ってそういうもんだろうけど…。

で、聞き人形でも問題が解決するならいいんだけど、上の※に書いたようにただ「すっきりした」ことだけが解決だと、根本的には何も解決していないので同じことが繰り返されるのよね。それがちと辛い、と。愚痴を聞くこと自体は「人間」に興味を持っている自分としては割と好きなんだけどねぇ。

提案を実践できずに同じ愚痴を聞かされることも全然どうってことはないんだけど、提案/指摘すること自体を嫌といわれるのはどうもね…。

さて、女性はこの考え方、どう思われるでしょう?まぁ普通にしっかりした方であれば、「提案/指摘すること自体を嫌」とはならないと思ってるんですけどね…一応。

でもまぁ、「聞き人形」の効能も解っているし、割とキャッチーかなと思ったので、タイトルはこうしてみた^^;;;。

# おぉっ今日は元旦ではないか…。おいら的にはあんまり普段と変わんないんだけど。

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2003.12.31

自分がすぐに変われないのと同じくらい他人もすぐには変われない

それなのに、人に対しては自分の言ったことをすぐに聞かない/実行しないといって怒りだす人、いるよね。
# そういう人に限って、自分の場合は「そんなすぐには変われないよ」「しょうがないじゃないか」といった言い回しをしがち。
まぁ、本当に言われたことを忘れちゃう人もいるわけだけれども。まぁ私だって以前人に言われた問題が直ってるかというととんでもない話で、直るまで言われ続けないとダメ、というのも内容によってはある。そう考えると、他人を変えようとする側にはどうしたって根気がいるわけだ。
一回言っただけで忘れられないくらい衝撃的/感動的な伝え方ができればいいかもしれないけどね。
ショック療法という話も以前したけど、大抵の場合は逆効果なので相当慎重にしないとだめ。単に自分の感情だけで怒りをぶつけた場合は全くショック療法にならず、100%逆効果になるといってよいでしょう。

いらいらする、という人は、まずは「人はすぐには変われない」ということを常に頭に置くようにしてみてはどうでしょう?

さて、先日「人はいくらでも変わることができる」というのを書きました。今回のと相反することのようにも思えるかもしれないけど、この二項目から判るのは、結局「出逢った人次第」ってことなんだよねぇ…。
一度逢っただけで自分の人生観を変えるくらいのすばらしい人と出逢う可能性は60歳を越えたっていっぱいあるんだから。
# おいら、おじいさんになった頃にはそういう(変わろうとする)感覚が麻痺してるかもしれないな…。そうならないように、一生世の中にはすごい人がいっぱいいるという気持ちを忘れないようにしよう…。

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2003.12.29

モチベーションを高めるためにどんな努力をした?

これは、「自分の好奇心を擽るのは何なのか、考えてみた?」というのが出発点かな。
そして、その何かを自分の心の中に産み出すために出来ることを考えるの。
さて、私はというと…。主にこんなことがあると興味を持つらしい。

  • どうやら私はちょっとした頭の体操程度の思考で出来そうなプログラムネタがあるとすぐ逃避するらしい
  • 同様の理由でパズル系は割と好き
  • ってか、飽きない/はまるタイプだ
  • プログラミングを始めると時間を忘れていつまでもやりかねない(思考が行き詰まらない限りは)
  • 複雑に組み上がったものの仕組みを見ると感動するタイプだ
  • 人が時間をかけてやっているのを見ると、簡単にできるのではないか?と思ってしまう(どれくらいでできるか試してみたくなる)
  • (上記より、当然)短時間 or 少労力で成果を出す人を見ると感動し、効率化の方法を見たく(盗みたく)なる
  • 最近はとにかく人間の反応の格差などを見ることが好きらしい
  • まだあるな…とりあえずこの辺にしとこ^^;

思い付きだけど^^;。うーむ、割となんでも興味を持てる人間になれてきたほうかな、と思ってます^^/。
さて、そうすると、このあたりを擽ってやろうとしていることへのやる気を向上させるために何が出来るか?

  • Web 漁り。ただし逃避ネタには欠かないけど本業のモチベーションに関しては上がる時と下がる時が…-_-
  • やろうとしていること(に近いもの/ヒントになるもの)をシンプルに実現している人を探す
  • 誰かにそれをやらせて(似たようなことをしている人を探して)苦労している様を見る^^;
  • とにかくプログラミングをする

ふむふむ。自分ってこうやってたんだな…と再認識。:)
これらは実は Web 漁るだけでたいてい解決できるのよね…。
みんなもやってみては?ぃや、上にリスティングしたことをじゃなくてリストアップ作業を、ですとも、もちろん:p。


ところで、「誰かにそれをやらせて苦労している様を見る」というのは「下を見る」ことに他ならないんだけど、基本的に常に上を見ていたいつもりの私ではありますが、こういう観点で「下を見る」のは実は割と重要かな、とも思う。
「自分より下があることを見てほっとする」というのは人間として当たり前の感情だしね。

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2003.12.28

期待していることを積極的に伝えよう

昨日のネタの続き…。# うーむ一時的には出したいネタが溢れるな…一時的には…。
他の人(生徒、他)の問題がなかなか修正されないと感じた時の話。教育者を信頼していて、その人の言葉を守ろうとする意欲があったとしても、できない、という場合ね。

欠点が直らない、問題だ、という話をしつづけるのは思考がネガティブになっているのでおいら的にはよろしくないと思ってます。でもまぁそれが重大な欠点で良い面をすべてかき消すほどのものの場合、単にその人の良い面を伸ばす教育だけでは間に合わない、というのも確か。
じゃぁどうすんのかというと、私の場合はとりあえず知識としてだけ、「こうしたほうがこうこうでいいよ」と伝え、後は当人の問題の影響が最少になるように裏で努力する、ですかね…。なんつーか、「こうしないとこうこうで問題だ」との違い、ですか…。

# ちなみに、自分やその周りに直接影響が無ければ「裏で努力」なんてそうそうしません:p。アドバイスはするけどそれを守ることも期待しないし、それによって当人が何らかの不利益を被ったとしても、それは私の美徳とする自業自得なので。
# 期待できないのにいつまでもアドバイスしつづける、ということもしないだろうけど^^;。ま、(その人が向上心を持つことに)期待はしてるんだろうな…でも期待に沿ってもらえなくてもそれは単にそうだったんだな、と思うだけなわけで。

私としては痛い目を見るまで本当に問題意識を持つのは難しいということと、それほどまでに無頓着だった問題の解決方法を自力で見いだすのは難しい、ということが経験則で、後はモチベーションを上げる(下げない)よう気をつけることしかできないなぁ、と。うーん、昨日以上に文章錯乱してるな-_-。

# タイトル、後で付けなおしたし-_-。しかも今見ると、それは昨日書いたことと同じだし-_-。
# 信頼/期待、と来てみたかー。みたいな^^;;。

# つまり、私ならこうするなぁ、と書きつつ、完全にできているわけではないってこと。たまにこういうこと書くと自分の意識確認になっていいねぇ^^;;

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2003.12.27

教育は信頼関係より始まる

んー飲み会でうだうだ言っててその場では思い浮かばなかった話なんですが、モチベーションってやっぱり他人無しではほぼ成り立たないのかなぁ、と。
えーっと、まずたたき込みは教育とは思っていません。んで、向上心はモチベーション無しには生まれない(というか、ほぼ同義)、という持論により、教育=部下/生徒(以降生徒と表記)のモチベーションを高める所為である、というところまでが前提です。
# 異論あったらぜひコメントよろしく〜。深くは考えてないので^^;。

さて、そうすると生徒のモチベーションを高めることが第一課題なわけですが、その最初にして最大の関門を突破するために最低限、そして最初から最後まで通して必要なのが教育者に対する信頼、なんだろうなぁ、と。
信頼している人が言うことは聞いとくもんだ、という気になる(その人に対するバイアスがかかる)。これはまぁ間違い無いところ。では、教育者の思ったとおりに行動しない生徒はその人のことを信頼していないのだろうか?答えはある意味そうなんでしょう。
ただ、その人のことを信頼/尊敬してはいても、単にうまくできない、というケースはままあるわけだけれど。今回はそのケースは保留として。

さて、仮に信頼されていなかったんだ、と判断したとして、では思ったとおりに行動しない生徒の信頼を勝ち取るにはどうすればいい?

私はまぁ、背中を見せるしかないかな、と思う。

「その生徒のため」という姿勢を一生懸命見せるのも効果的とは思うけれど、実際に伝えようとしていることの意義を生徒が理解しない状況では同情は買えても信頼に結びつくかはちと疑問。
さすれば、私だったら伝えたいことを実践してそれをしていない生徒との違いを体感してもらえる方法を模索する、かな…。後は、教育者であれば生徒のしたことの責任を取るのは当然であって、金八先生好きのおいらとしては、生徒のせいで責任を取らされたことを直接的に言うことはせず、いつか気付くようなシチュエーションが好き、とか^^;。

うーん…まだもやもやしてるな。てか、飲み会でも言ってたけど、それは一つの教育方針でしかなくて、それで正しいかどうかはわからないしねぇ。また、信頼とは別のレイヤーで先に書いたとおり能力/適正の問題でやろうという意欲はあるが実現できないでいる、というのを解決する方法はまた別だしね。今度それも考えよっと=ネタにしよっと^^;;。

あ、今思いついたもしかしたら核心を突いているかもしれないもう一つの格言。

相手の信頼を勝ち取るには、まず相手を信頼すること。そして相手を信頼していることを伝えること

そうか…これ、まだやり足りてないかも(誉め下手だし^^;)。よしゃっ。

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2003.12.26

「会社の実績」だけでなく「あなたの実績」もちゃんと蓄積される

会社に尽くすのもいいし、たとえ交換可能な部品としての仕事しかしていなかったとしても、それをやったのがあなたであることは見ている人は見ている。つまり、あなたならそれができるという事実を知っている人は知っている。ただ、それをあなたがやったのだということを隠したがる会社は好ましくないかもね。もっとアピールしていいし、自信も持っていいはずだ。

# ちと…ネタ切れ気味^^;;。このテーマでは普通に考えて即興で何十個も出せないので1ヶ月も持たなさげなんだけど、そこそこ頑張ってるほうではある…。いけるところまでいったら、今度こそアホアホネタで…^^;;。

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2003.12.25

人は人と巡り逢うことでいくつになっても自分を変えることができる

「クニミツの政」という漫画で坂上先生が言った言葉。
# 今でも読んでいる漫画はこれくらい…。
基本的においら、このページではオリジナルを書いてるけど、この言葉だけは別格というか見て感動したもんでここでも書いておきたい。

そうだよ、いくらでも変われる可能性はあるんだよ。そして、いろんな人との出逢いのチャンスを大切に…。

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2003.12.24

お世辞をもっともらしく言える人は人生を有利に進めることが出来る

もちろん、お世辞でなく、純粋になんでも感動/高評価できればよりすばらしいけれど、たとえそうでなくても、つまり、自分にとっては当たり前だったり無関心なことだったとしても、賞賛に値する良いところを見つけ出して言ってあげられる人がいます。
要するに誉め上手ですね。こういう人は、とにかく人に嫌われにくいし、自分のやったことをもっと見てほしいと思わせる人なので、人がいろんなものを見せに集まって来ます。それはつまり情報が集まるということで、その情報を欲する人も集まってくるようになるので好循環がまわりはじめます。
で、わたしゃお世辞が言えないのでコメントに窮することがよくあってダメダメ…-_-。できるだけいいと思ったことも悪いと思ったことも全部思ったままに言うようにしてるつもりだけど、言う順番にまだ問題があるみたい-_-。

とはいえ、ばればれのお世辞はやだし…。※普通の人はばればれのお世辞でも嬉しいことの方が多いんですけどね。

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2003.12.23

具現化能力がある人間はすげー有利

言葉/絵など何でもいいが、思っていることを適切に表現することができる人間は、これまた勉強ができなくても人生を大変有利に過ごすことができる。
まぁ、それって頭がいいってことだけど。言葉にするなら論理的思考能力が必要だし。「適切」以上に人を感動させるほどの表現力を持っているなら小説家なり芸術家なりになるよろし。
それほどでなくても、きちんと自分の考えを意見として言える、これだけでも立派。社会人でもできる人の割合はかなり低いと思われます。私…だいぶ下手くそです…-_-。
最近企画をやろうとしてるけど…もやもやしてるなぁ…-_-。ま、いつもの開発のつもりで整理、始めますか…。

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2003.12.22

誰かと応対する時、いつでも「他人同士の応対を観察する」ような第三者視点を持とう

自分の悪いところは自分視点では目に映りません。
まぁ私、そういうことをここんとこずっとやってきた結果、感情が麻痺しつつありますが…^^;
腹を立てることがなくなったのは良いこと、でも喜びや驚き(悲しみも)を感じにくくなったかも-_-。
# 私は冷徹であることを自認しています^^;
## 一応無感情じゃないよ…たぶんね

その場で他人事のように振る舞うのではなく、後で思い返すようにすればいいでしょうね。

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2003.12.21

娘にはこうなって欲しい

一言で言えば「人に優しく自分に厳しい人」。

自身の人間性を高めることに一生取り組んで欲しい。多くの人が逢いたいと思ってくれる人を目指して欲しい。
そのために絶対に必要なのは、沸き上がるプラス思考。
常にプラス思考ができるということは、周りの人間も幸せにする力を持っているということ。
もちろん反省無しのプラス思考だけでは逆に周りの人間をいらいらさせるだろうけれど。
どんな困難/苦痛に会っても、それを自身の今後の糧にする気持ちと、周りにそれを振り撒かない優しさを持った人間であれば素晴らしいこと。

自分も目指したいところではある。頑張るくさ。…あ、また逃避してる…-_-。

(追記)
ところで、「逢いたいと思ってくれる人」は「顔を見たい」とかに限定せず、何らかのアクションをおこしたくさせる(話しかけたい、とか)といった意味で書いたんだけど、そんな人間になるのはインターポットのところにも書いたけど、ほんと、難しい…。
そこに書いたとおり、自分が何もしていないのに他人が気にかけてくれるはずもなく、「何か」をしている必要があります。それは人に対する何かかもしれないけれど、世の中に対する何か、かもしれない。
魅力ってのは難しいねぇ。まぁ、どんなことでも一生懸命やっていればそれを魅力と捉えてくれる人がどこかにはいるはずだけどね。

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2003.12.20

良好な人間関係を構築する最良の方法は相手に不快感を与えないように気を使うことでは無い

相手に「自分が不快感を持たないように気をつけさせること」をさせないように振る舞うこと、と私は思うわけ。背反を言っているわけではないのでもちろん両立可能なんだけど。
自分が他人の機嫌をうかがってばかりいると、相手も自分に気を使わなければならないと錯覚することが多いように思う。そして、いい人なんだけどちょっと付き合い辛い人だな、という印象を持たれる。
警戒心を持たせない人間には話しかけたくなるよね。

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2003.12.19

何もしなかったことによって引き起こされる障害もある

自分はそれをかぶる口…まさに自業自得…-_-。
ある面に積極的なんだけど他の面がおろそかになる…よくあることではあるけど…。

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規則は、基本的に自己管理が出来ない人のためのもの

基本的に人間は縛られることでモチベーションを下げます。 沢山の責任/義務が重圧としてのしかかった人が鬱病(モチベーションが極端に下がった状態)になりやすいわけで。 自己管理が出来るなら、どうでもいいような規則に縛られ続けて生きるのは自身の成長を遅らせる策なので脱出するのもよいでしょう。

人を管理する立場の人は、規則で人を縛ることは基本的に、一時的にはその人を縛れても長期的には逃げられる策であるということを念頭においておく必要があります。目的は規則を守らせることではなく積極的にそれをしてもらうことなのだから。

ただし、規則正しく生活することでメリハリがついてより効率が上がるタイプの人がいるのも確かです。

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2003.12.18

怒りをあらわにすることで解決するものはほとんどない

少なくとも落ち着いて話すことと比較すれば。 目標は事態の改善なのか、誰かを自分の感情のはけ口にすることなのか、 それを考えてからトラブルに対峙するのがよいです。 いくら話してもダメな人に対しては限定的にショック療法が必要な場合も ありますけれど。(追記)もちろんその場合も目的はあくまで事態の改善のはずだよね。

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2003.12.16

何かを産み出す趣味を持とう

絵でも音楽でも積み木でもひねもす^^;でもプログラムでも作文でも裁縫でも…与えられたものを消費するだけの趣味とは違った感性と価値観が身につくよ。

(追記)そしてなんといっても安上がり:p

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2003.12.14

他人が自分より楽に生きてるように見えるからって羨ましがっちゃだめ

今の自分は90%以上は自分で形成したもの。 自分以外からの影響ははかり知れないくらいあるけれど、その結果としての自分は自分で(自分の判断で)作り出したものだからね。

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2003.12.12

言いたいこと言ってて人が動いてくれるなら、あなたは人徳者。 でも言いたいこと言えずに気を使いまくってても望みは叶わない

要するに、バランスが必要、なぁ〜んてありきたりな結論はやだね。 人徳者になろうよ、みんな。 率直で真摯な意見は受け入れられるはずだよ。受け入れようとしない非人徳者はたくさんいるけど:p

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あなたの評価は特定の人が決めたものだけではない

評価する人は無数。自分も含むけれど自分での評価が重要でもない。 自分が大したことないと思ってることでも人によっては喜ばれることもた くさんあるしね。逆にだれかにダメといわれたことでも、ね。 おっと、自己評価だけがやたら高いのは自意識過剰だよ:p

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2003.12.10

それは本当にちゃんと伝わってますか?

人は思っただけじゃ思ったとおりには動かないよ。 てか、必死に伝えたつもりでも思ったとおりに動かないもの。 まずは、その現実(そういうものだということ)を受け入れないと社会でやっていけないよね。 受け入れない人、結構いるけどさ:p

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2003.12.08

自己顕示欲旺盛、よいことです

自分のやってきたことはどんどん世間に公表しようじゃないか。 ただ、押しつけでなく見たい人が見れるようにするのがコツ、かな。 あなたの過去の成果を見たがっている人は比率としては多くは無いから。 でも、絶対数は少なくないんだよ。

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2003.12.07

ストレスは自分が作り出す

まぁ、俺様定義では、ね。 ストレスとプレッシャーを分けて考えてます。 用語的には「ストレス」は外的圧力に対する反発力、とされていますが、 世の中でストレスストレスと言われるものはほとんど自分がそう感じるよ うに仕向けているだけ。 同じ事象に対してストレスに感じる人と感じない人がいるのはなぜでしょ う?考えてみませう。

それはそうと、他人に不必要なプレッシャーを与えないような生き方をしたいもんです。それがその人のためになるならともかく、ね。 ついでに言うと、その人のためになるかどうかはそう簡単に判断できるこ とではないということも知っておかないと。

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2003.12.06

子供のやることに腹を立てちゃだめ

注意するにしても、可能な限り「禁止」ではなく「こうすればいいよ」と言ってあげたいところ。 指導と怒るの違い、解ってない人、結構いるねぇ…。 「部下」でも同じだねぇ。

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2003.12.05

インターポット

InterPot
http://interpot.nifty.com/

もともとは知人の紹介で始め、一年くらいたまに世話するだけだったのが、去年あたりで InterPot3 になったのをきっかけについにコミュニケーションに手を出す。

ブラウザ上で動いてた頃はうっかり閉じちゃうわ起動までが心理的に面倒だわというのが障害になっていたのかなぁなどとも思うけれど、やはりコミュニケーションを始めて人間自体に興味を持ってからが楽しい感じ。

なんか、よく言えばのんびり悪くいえば退屈なゲームとあって、(特に長く続けてる人は)男性より女性が多くて、しかもその中でものんびり派(?)というか、温かい人が多いちょっと特殊なコミュニティだ…。

さて、格言っと:p
ここにいると、モテると勘違いしてしまう。
どこが格言やねん…。

ま、しかしそんなところでもやっぱりうまくいかない人はうまくいかないもので、まぁ自分も最初の一年は自分からはなにもしなかったわけでその間コミュニケーションの広がりは無かったわけで、と。

勝手に声をかけてくれる人は100人に一人、継続して声をかけてくれるのはその中の100人に一人。

自分から行かない限りは、ね。

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2003.12.04

人間に必要なのは勉強で得た知識よりも人心を掌握する能力である

まぁ、人の生き方はそれぞれだけど、単に自分はこうしよう、と思ってるだけだし。

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人は一生自分の理想の人間を演じようとする

…という人は少ないかなぁ…? ま、演じる=理性だしね。こうなったらとことんなりきりましょうよ。

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2003.12.02

人生に無駄な経験は無い。どんな不幸であろうとも

不幸だ不幸だといつも漏らす人がいる。(「ストレス」も同じ)
経験の中から将来への知見を見いださず、不幸から逃げたがってばかりいたり、それでいてその不幸を忘れることもせず愚痴だけは言ってみたり。
自分のどのような行動がその結果に結びついたか考察するだけでも他の人に出来ないことが出来たわけで、良い経験である、と考えてみましょう。

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トラブルの種はいつも最初に他人に不満を持った人が蒔く

なぜそんなにも他人が許せない?
自分は本当にそんなことはしていない?

指摘と怒りをはき違えないようにしましょう。

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